オルガンの未来へ IV|谷口昭弘
ミューザ川崎シンフォニーホール
ホールアドバイザー 松居直美 企画
オルガンの未来へ IV
2018年 2月17日 ミューザ川崎シンフォニーホール
Reviewed by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)
Photos by 青柳聡/写真提供:ミューザ川崎シンフォニーホール
<演奏>
オルガン:松居直美
指揮:西川竜太
合唱:混声合唱団 空(くう)、女声合唱団 暁、男声合唱団クール・ゼフィール、成蹊大学混声合唱団有志
バッハ・カンタータ solo(ヴォクスマーナ):Sop.稲村麻衣子、Alt.輿石まりあ、Ten.金沢青児、Bas.松井永太郎
構成:権代敦彦
<曲目>
グレゴリオ聖歌 《過越のいけにえを讃美せよ》(男声斉唱)
シャイデマン:《キリストは死の縄目につながれ》
J.S.バッハ:コラール《キリストは死の縄目につながれ》BWV 277
J.S.バッハ:オルガン小曲集より《キリストは死の縄目につながれ》BWV 625
J.S.バッハ:カンタータ《キリストは死の縄目につながれ》BWV 4
(休憩)
グレゴリオ聖歌 《過越のいけにえを讃美せよ》(女声斉唱)
高田三郎:典礼聖歌《復活の続唱》
エスケシュ:《過越のいけにえを讃美せよ》による5つのヴェルセ(詩歌)
権代敦彦:《最後のアレルヤ》(世界初演・2017年度ミューザ川崎シンフォニーホール委嘱作品)
冒頭から深々とした歌声によるセクエンツィア《過越のいけにえを讃美せよ》は、厳かなミサ典礼の雰囲気を醸し出す。続いて松居直美によるシャイデマンの慎ましやかなアレンジによるオルガン前奏曲は(変奏部分に演奏会的な気分を残しつつ)教会に集まる信徒が礼拝に備えていく心持ちを一気に醸し出した。バッハ小品は礼拝の荘厳な終わりのよう。これらオルガン独奏がキリスト教の礼拝を縁取るとなれば、その間に歌われた四声体のコラールは、礼拝の本体へと聴衆を誘っていく。ただ声部のバランスは、コラール旋律がもう少し明確に聞こえて欲しいと思ってしまったのも事実。この曲に限らず、全体的に合唱は男声の方が、より力強く客席に届いてきた。
歌による説教とも言われる《カンタータ》第4番は、オルガンとの距離のせいもあるかもしれないが、コラール第1節を歌う合唱パートのメリスマがやや泳ぎがち。ただアラ・ブレーヴェに至る迫力は、やはり圧倒的だった。稲村麻衣子と輿石まりあのデュエット(コラール第2節)はオルガンとのバランスもよく、短く掛け合うフレーズがやがて一つとなった瞬間の美しさに心を満たされた。松井永太郎の独唱(コラール第5節)は死によって勝利したキリストを盛り込んだ物語の転換点が力強く表現された一方、稲村と金沢青児によるコラール第6節には、それを受けた救いの表現がもっと欲しいとも感じられた。
もちろんその救いは十字架と表裏一体であり、短調で歌われるルターのコラールが十字架上のイエスの死を強調していると解釈することは可能だ。しかしコラールの後半の節の歌詞は、死を断ち切り克服した復活の主を、より前面に出そうとしているのではないだろうか。
休憩後は、女声の斉唱による復活祭の聖歌(コンサート冒頭に男声が歌ったのと同じセクエンツィア)が歌われ、高田三郎の《復活の続唱》が続く。いよいよ復活のイエスという感覚が強くなり、前半の演目との違いが明らかだ。これに続くエスケシュのオルガン曲は、聖歌が次第に独白的な音楽へと一度解体され、最後に文字通り「復活」したように聞こえたのが面白い。ただ最後に聴かれた不思議な和音は、キリストの犠牲による救いが私たちの罪に由来していることを改めて訴えているのだろうかと思わされることになった。
権代の世界初演作品は、プログラムノートによれば、神、キリスト、十字架という言葉をバッハのカンタータに使われた歌詞から取り除いたという。これらの言葉がないと「救い」がもたらされないのではないかという不安も覚える一方、テクスト自体には死を超えたいのち、神への讃美は残っているということを示唆している。ただ第1楽章<死を免れること誰にも叶わず>はオルガンの最低音域から男声が次第に声域を上げながら人間の力では超えられない「死」を歌っていた。うごめくオルガンの走句は幾重にも積み重なり、これも死を意識させていく。死と生の闘いを描く第2楽章<死 vs. 生>は、まさに激しくぶつかりあう声の凄み。合唱は、この作品では俄然と響いてくる。第3楽章<十字架(これぞ真の過越の子羊)>では、イエスという言葉をあえて避けつつも「過越 Osterlamm」という合唱にチューブラベルが打ち鳴らされ、神秘的な神の子が眼前に出現したことを示唆した。
一方「ハレルヤ」(歌詞は「ハレルヤ」と「アレルヤ」の両方が使われている)以降はオルガンが技巧的なパッセージを聴かせ、絶えることない神への讃美を信じてよいのか、という揺らぎが感じられる。第4楽章<アレルヤ>はそれをさらに継続し、聖歌の旋律が登場しつつチューブラベルが同じ音を繰り返しつつクレッシェンド。やがて「ハレルヤ」は消えてしまうのか、何とも言えない余韻だけが残る。その「最後のアレルヤ」は、繰り返しの必要のない究極の讃美なのか、あるいは息絶えしまった讃美なのか、頭の中で思考が循環しながら、コンサートが終わった。
復活祭のミサ典礼で歌われる聖歌《過越のいけにえを讃美せよ》から出発する本公演は、受難節とともに、イースターの雰囲気を先取りするのかと思われたのだが、そう簡単に復活の喜びに達し得ないように感じられるのは、権代作品だけでなく、こういった演奏会が置かれた今日の不穏な社会があるからなのか、さらに考えながらホールを後にした。
(2018/3/15)