NHK交響楽団 第1881回定期公演|齋藤俊夫
2018年2月21日 サントリーホール
Reviewed by 齋藤俊夫 (Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ヴァイオリン:諏訪内晶子(*)
NHK交響楽団
<曲目>
武満徹:『ノスタルジア―アンドレイ・タルコフスキーの追憶に』(1987)(*)
武満徹:『遠い呼び声の彼方へ!』(1980)(*)
リヒャルト・ワーグナー:楽劇『ニーベルングの指輪』管弦楽曲集
I:『ワルキューレ』より『ウォータンの別れと魔の炎の音楽』
II:『ワルキューレ』より『ワルキューレの騎行』
III:『ジークフリート』より『森のささやき』
IV:『神々のたそがれ』より『ジークフリートの葬送行進曲』
V:『神々のたそがれ』より『夜明けとジークフリートのラインへの旅』
VI:『ラインの黄金』より『ワルハラ城への神々の入城』
前半はヴァイオリンソロに諏訪内晶子を迎えての武満80年代の2作品。水、河、海、そういったイメージが連想されることの多い後期武満だが、そのイメージが2作品で異なったものとして心象に浮かんできたのが実に興味深かった。
まずは『ノスタルジア』。実に繊細で、かぼそい弦楽に、太くたくましいヴァイオリンソロ。しかし、弦楽はかぼそくても甘さを拒絶するしなやかに張り詰めた強さがあり、ソロは太くとも音に濁りが一切ない。
弦楽は水のよう澄み切っているが、水流を作ることなく、湖の水面のごとくただ静かに光を反射している。その水面からヴァイオリンソロが独り上昇していくが、その姿はすぐにおぼろとなって見えなくなる。ヴァイオリンソロと弦楽の水平と垂直の対照的なベクトルは、武満の代表作『ノヴェンバー・ステップス』の尺八とオーケストラを想起させもした。だが、本作は『ノヴェンバー・ステップス』の猛々しいとも言える響きとは全く異なり、ソロも弦楽も言いようのない透明な哀しみに満ちている。終曲のソリストの上昇はタルコフスキーの魂が天に昇っていく様、あるいは武満の祈りであろうか。
『遠い呼び声の彼方へ!』は甘い甘いオーケストラの響きで始まる。そしてオーケストラは風を呼び、波打ち、「調性の海」を形成する。ソリストは先の『ノスタルジア』のようなオーケストラと垂直のベクトルではなく、オーケストラと同じベクトルでそれを先導し、あるいは調性の海に潜ったかと思うとそこから跳ね上がる。諏訪内のヴァイオリンが実に官能的であり、またオーケストラもグラマラスな響きでソリストと共に空間を飾り立てる。後半のカデンツァは激情を伴いつつも、凛として清冽。武満後期の新ロマン主義的な豊穣な響きに身も心も浸ることができた。
後半のワーグナーは『ウォータンの別れと魔の炎の音楽』、『ワルキューレの騎行』、『ワルハラ城への神々の入城』など要所要所で、「これぞワーグナー」と思わされる金管のフォルテシモが朗々と、堂々と奏でられるも、それが耳を聾するように音を押し付けてくるのではなく、会場中に音が広がり、聴衆を包み込む。金管が他の声部を塗りつぶすのではなく、全楽器が共に響きを形作っていたのである。
『森のささやき』の、1曲で1フレーズのような息の長い音楽も、ピアニシモからフォルテシモまで各楽器が緻密にかつ滑らかにアンサンブルし、不要な音楽的「段差」が全く無い。それは『ジークフリートの葬送行進曲』でも同様で、悲劇的なこの曲であっても感情的に演奏が暴れることなく、あくまで自然に音楽と感情が流れるように演奏する。
今回のパーヴォ・ヤルヴィの演奏解釈は、オペラ向きではなく、コンサートホールでの演奏会のためのそれだったと言えよう。オペラであればもっと金管の音を張り上げ、悲しみや喜びの感情を「劇的に」表出した方が良いのかもしれない。だが、演奏会では、物語に沿った劇的な音楽ではなく、形式としての音がどのように構築され、鳴り響くかを聴かせるべき、そうヤルヴィは考えたのだと筆者は推測した。
そのアプローチが最もはっきりと示されたのは『夜明けとジークフリートのラインの旅』でのホルンのジークフリートのライトモチーフのソロであろう。音も割れよと吹き鳴らすのではなく、ホルンの音が一番美しく響く音量・音質で朗らかに奏でられたのだが、それはオペラ的な「演技」の一種としてではなく、あくまでオーケストラの一部としての演奏であった。
終曲、『ワルハラ城への神々の入城』の緩徐楽章的な穏やかな調べの後で金管、さらにトゥッティでまさに「神話的」とも言えるフィナーレを迎えたが、最後まで音楽的に過剰になる所はなかった。
その演奏の完成度の高さ、指揮者の解釈・采配の的確さに改めてN響&パーヴォ・ヤルヴィの実力を知らしめられ、そして豊かな音楽的喜びに満ちた一夜であった。
(2018/3/15)