神戸市室内合奏団定期演奏会|能登原由美
神戸市室内合奏団定期演奏会 ヴィーン古典派からの視座
ハイドンのふたつの時代から−疾風と怒涛から古典派の確立へ−
2017年12月3日 神戸文化ホール 中ホール
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 米田英男/写真提供:公益財団法人 神戸市民文化振興財団
<演奏>
鈴木秀美(指揮及びチェロ独奏)
神戸市室内合奏団
<曲目>
L. ボッケリーニ《チェロ協奏曲ト長調G. 480》
F. J. ハイドン《交響曲第44番ホ短調Hob. I: 44「悲しみ」》
F. J. ハイドン《交響曲第87番イ長調Hob. I: 87》
〜〜〜アンコール〜〜〜
F. J. ハイドン《交響曲第13番イ長調Hob. I: 13》より第2楽章
ああ、やはりハイドンはエンターテイナーだ!あの手この手で観る者、聞く者を楽しませてくれる。音楽史的にどのように位置付けられようが、どのような時代区分がなされようが、その根っこの部分は変わらない。様々な表情や役柄を隠し持ち、奏者や聴者に応じて巧みに繰り出してくる。それが舞台上で展開されれば、さながら言葉のない音楽劇にもなる。チェロ奏者で指揮者の鈴木秀美によるタクトが、このハイドンの「劇的」世界を十分に堪能させてくれた。
神戸市室内合奏団の定期演奏会。テーマやプログラミングにこだわりをもつアンサンブルだ。今回のテーマは、「ハイドンのふたつの時代から−疾風と怒涛から古典派の確立へ−」。文字通り、ハイドンの二つの時代の様式的な変化や違いが味わえるものと期待できるが、とりあえず余計な先入観は封印しておこう。
プログラム冒頭は、ハイドンと同時代を生きたボッケリーニの《チェロ協奏曲ト長調》。鈴木自身の独奏による。ここでの鈴木は、弓を弦の上からわずかに上ずらせながら足取り軽く音を紡いでいく。その弓と弦の間にみられる適度な距離感がこの時期の音楽を表しているのだろう。自らの感情を押し付けるのではない。一歩引いたところから俯瞰し、音の連なりをありのままに浮き上がらせていくようだ。
続いて、ハイドンの《交響曲第44番ホ短調Hob. I: 44「悲しみ」》。本公演のテーマである「疾風と怒涛」にまさに関連づけられる作品である。とはいえ、先のボッケリーニ同様、鈴木は感情の露出や変化を後景に押しやり、軽快な足取りで疾走感と歯切れの良さを前面に押し出してくる。突風や大風に巻かれるというより心地よい清風がつねに体を吹き抜けていくよう。弦楽器、管楽器奏者のいずれも透明感のある音色で応答し、どっぷりと浸かるわけではない、どこか遠いところにある「悲しみ」の世界を眺めているような世界だった。
最後に、パリからの依頼で作曲された一連の「パリ交響曲」の中から《交響曲第87番イ長調》。先の「悲しみ」とは一転して、鈴木はここで大きな身振りを打ち出してきた。冒頭からダイナミクスやアーティキュレーションを強調し、あるいはその変化を浮き彫りにすることで、実にコミカルなハイドンを見せてくる。だからといって音楽は決して失速するわけではなく、笑いとともに軽やかに走り続ける音楽は、まさに「疾風」の音楽。もちろん、ハイドン自身「疾風怒濤」といった概念のもとに作品を書くことはこの時にもそれ以前にもなかっただろう。むしろ、エステルハージの辺境の都とは異なり、ヨーロッパの都、音楽に溢れるパリの聴衆を喜ばせるためにハイドンが仕掛けた数々の小ワザであったに違いない。その小ワザが鈴木によって存分に活かされていた。
こうした小ワザはシンフォニーの終盤にもみられた。終楽章の再現部が終わったところで終演かと見せかける鈴木。それにつられて拍手し始めた観客を尻目に再び展開部へ。恥じらいながら姿勢を正す人々を振り向きざまにニヤリと見やる。ハイドンだけではない。エンターテイナーは鈴木自身でもあるのだ。奏者に合わせて様々な表情を見せるハイドン、その一面を十分味わうことができた。
(2018/1/15)