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メシアン:歌劇『アッシジの聖フランチェスコ』|藤原聡

読響創立55周年&メシアン没後25周年記念
メシアン:歌劇『アッシジの聖フランチェスコ』(演奏会形式/全3幕/仏語上演、日本語字幕付/全曲日本初演)

2017年11月19日、26日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<出演>
シルヴァン・カンブルラン指揮/読売日本交響楽団

天使:エメーケ・バラート
聖フランチェスコ:ヴァンサン・ル・テクシエ
重い皮膚病を患う人:ペーター・ブロンダー
兄弟レオーネ:フィリップ・アディス
兄弟マッセオ:エド・ライオン
兄弟エリア:ジャン=ノエル・ブリアン
兄弟ベルナルド:妻屋秀和
兄弟シルヴェストロ:ジョン・ハオ
兄弟ルフィーノ:畠山茂

合唱;新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル
合唱指揮:冨岡恭平
オンド・マルトノ:ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー、大矢素子、小川遥
コンサートマスター:長原幸太

 

長年コンサート通いをしていると、稀に信じ難い瞬間に立ち会うことがある。許光俊氏は、それを敢えて定量化するような言い方で「小奇跡」「中奇跡」「大奇跡」などと書いていたように思うが、それで言えばこの『アッシジの聖フランチェスコ』全曲日本初演などは何の躊躇もなく「大奇跡」と呼びうる感銘を与えられた歴史的イヴェントであった。それはまずもって作品の力によるものであり、そしてその作品の持つ力を余すところなく引き出したカンブルラン&読響を始め上演に携わった全ての人々の信じ難い力量と献身によるものだ。まずは、この上演を実現させた関係者の方々に深く感謝を捧げたいと思う。

作品の概要記載、説明は何らかの資料に当って頂ければ比較的容易に知ることが出来るのでここでは割愛させて頂くが、今回この奇跡的な4時間20分に及ぶ作品の上演を成功に導いた最大の立役者は今までこの作品を24回(!)指揮しているというカンブルランをおいて他にはいない。上演の1ヶ月前に来日した上で弦楽器、管楽器、打楽器に分かれての指導を徹底的に行なったというが、その成果は十分に表れたのではないか。読響の演奏は極めて正確な上に柔軟なニュアンスをも感じさせ、特に打楽器、わけても終始出ずっぱりであるマリンバやシロフォン、シロリンバの複雑なリズムを完璧に叩き切るのみならず、ただ正確なだけではない強弱や表情の絶妙なニュアンスを見事に叩き分ける演奏ぶりは賞賛の言葉以外ない。ともかく冒頭から驚異的であり、録音で聴いた海外アーティストによる演奏――ケント・ナガノ&ハレ管やメッツマッハー&ハーグ・フィル――に勝るとも劣らないが、むしろそれらより明快とさえ思われる。録音と実演を単純に比較出来ないのは百も承知ながら、編集・整音された録音物よりも実演がそう聴こえるということ自体が凄い。むろん打楽器のみならずオケ全体に渡って細部までクリア、目配りが行き届き、曖昧に処理される箇所がまるでない(これは聴けば分かってしまうものだ、作品如何に関わらず)。指揮者が作品を完全に掌握・血肉化していることが手に取るように感じられるが、『アッシジ~』のこのレヴェルの実演には今後ほとんど接することが不可能な気がする。上演自体が稀なのだから尚更。そして早くも8月より冨岡恭平によってリハーサルが始められていた合唱もよく揃い、その発声は明晰でまるで破綻がなく、繊細な上に迫力もあり、音楽的に美しく練り上げられている。これもまた絶賛に値する。

歌手陣もおしなべて高水準だが、中では聖フランチェスコ役のヴァンサン・ル・テクシエと出番は短いながらも重い皮膚病を患う人役のペーター・ブロンダーが頭一つ抜きん出る。前者は終始深みのある声と包容力を感じさせる歌い口で極めて強い説得力に満ち(落ち着きあるジョセ・ヴァン・ダムの名唱と比較すれば幾らかの劇性を感じさせるがほとんど好みの問題か)、後者は真剣でありながらもいささか戯画化されたキャラクターを性格的に表出することに成功していた(カンブルランはこの後者について「『ラインの黄金』のローゲのようなキャラクター」と4月の講演において語っていたが、まさにそのような印象)。次いでは天使役のエメーケ・バラートの清澄さが得難い。兄弟レオーネ役のフィリップ・アディスは声量にやや難があるが、歌自体は良い。

上記のような考えうるベストの布陣とその演奏によって上演された『アッシジ~』がいかに感動的な音楽であったか。第5景『音楽を奏でる天使』におけるLB、RB、そしてパイプオルガン横に配置されたオンド・マルトノと幽けき合唱による、まるでエーテルのごとく大気へと溶解していくかのようなこの世の物とも思われぬ音色による音楽――『天使のヴィオール』――は息をするのも憚られるような一瞬であり、そこでは完全に時間が止まっていた。あるいは第6景『鳥たちへの説教』でのカンブルランの驚くべき切れ味と正確さを誇る指揮によって提示された「仕組まれたカオス」の鮮やかさ、そして第8景『死と新生』終結部の辺り一面をくまなく銀色に染め抜き照らし尽くすかのような、あまりに強烈な(過剰な、と敢えて言っても良い)高揚。これには呆然とする他ない。尚、筆者は19日、26日と2回上演に接したが、19日でもほぼ完璧ではないかと思われたその演奏は、23日のびわ湖ホールでの演奏を経ての26日で更なる高みに到達していた。これもまた驚異的である。

余りに当然ながら、メシアンの作品はこの『アッシジ~』のみならず作曲者のカトリックへの帰依から生まれているが、我々日本人にとってはそこに敷居の高さと難解さを感じてしまうところはあろう。または「理解できるのか?」という自答。しかしカンブルランは語る、「…カトリックを理解できないと、この手の音楽を理解できないと言われることがありますが、私はそうは思いません。バッハの受難曲を聴く時は、聖書や宗教を知らなくても十分楽しむことができますし、モーツァルトの『レクイエム』やベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』にしても純粋に音楽として楽しめます。それらとメシアンは、まったく同じ。メシアンの音楽は、宗教を越えた精神性を私たちに訴えてくる。特定の宗教と結びついていない普遍的な部分があると思います」。他方、メシアンは「移調の限られた旋法」や「非可逆的リズム」と言った独特の技法について「聴き手がこれらの技術的な工夫を理解する必要はなく、それらが発する不思議な魅力を感じ取ってもらえればよい」と述べる。理解のための「勉強」をしなくてもよい、という意味では勿論ない。しかし、理解することと対象に圧倒されて否応なく惹き付けられることは時として別物であろう。今回の『アッシジ~』、理解できたのかと問われれば筆者は「NO」ということにはなるだろう。しかし、カンブルランやメシアンの勇気付けられる言葉に後押しされて、自信を持ってこう言おう、「楽しんだし、不思議な魅力を骨の髄まで感じました」と。重ねて、メシアンの神秘に触れさせてくれた演奏者及び関係者の方々に深く感謝。そして、何よりオリヴィエ・メシアンその人に。