マーク・パドモア&ポール・ルイス|藤原聡
マーク・パドモア&ポール・ルイス
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
マーク・パドモア(テノール)
ポール・ルイス(ピアノ)
♪第1夜:ウィーン古典派からロマン派へ
2017年11月22日 王子ホール
<曲目>
ハイドン
彼女は自分の恋について黙したままでした Hob.XXXla:34
霊の歌 Hob.XXXla:41
おとめの問いに答える Hob.XXXla:46
モーツァルト
すみれ K476
ラウラに寄せる夕べの思い K523
ベートーヴェン:アデライーデ Op.46
シューベルト:すみれ D786
シューマン:詩人の恋 Op.48
♪第2夜:ハイネ&ゲーテ
2017年11月24日 王子ホール
<曲目>
シューマン
リーダークライス Op.24
ブラームス
恋よ来いの季節は春 Op.71-1
夏の夕べ Op.85-1
月の光 Op.85-2
花はみな見やる Op.96-3
航海 Op.96-4
死 それは涼やかな夜 Op.96-1
シューベルト
月に寄す D296
海の静けさ D216
竪琴弾きの歌
孤独に身をゆだねる者は D478
涙とともにパンを食うたことのない者は D479
戸口を訪ねてしのび行こう D480
御者クロノスに D369
ヴォルフ
ねずみ獲り
花のあいさつ
似合いの同士
自然現象
アナクレオンの墓
コーランは不滅であるか
我らみな酔わずにいられようか
しらふでいると
酔っているといって彼らは
今日のこの酒場ときたら
(アンコール)
シューベルト
ギリシャの神々 D677
実に心憎いプログラミングと言うべきだろう。ドイツ・リート前史とも言うべきハイドン作品から始まって、時代を下りながらその重要作曲家の作品をピックアップして行く構成。第1夜は「ウィーン古典派からロマン派へ」という時系列そのまま、と言う意味でのリテラルなタイトルが付されているが、当夜プログラムでの舩木篤也氏の見立てを引けば、第1夜のテーマは「生を越えて、死してまで、愛は伝わるか」(前半のキーワードは「すみれ」と「墓」だという。後半『詩人の恋』でも花と死のイメージは明白)。
第2夜は「ハイネ&ゲーテ」。古典派~初期ロマン派~後期ロマン派に至るリート史においてはこの2人の大詩人の詩が特権的な扱いをされていると見てよい。教科書的に整理すれば古典主義~啓蒙主義時代の全人的なゲーテ、そしてそれ以降、近代的な歪んだ自意識がその詩作に自ずと迸り出るハイネ。いわばこの2人の詩作には西欧的なるもののキモが先鋭的に凝縮されている。それを同時代の鋭敏な作曲家が嗅ぎ付けぬ訳がない。ハイネとゲーテの詩への付曲のみでまとめたのが第2夜。
第1夜はあまり聴く機会のないハイドンの作品2曲から始まる。シェイクスピアとアン・ハンター、そして詩人不詳、のそれぞれ3つの詩に付された曲中、最初の2曲は英詩である。この2曲でのパドモアのディクションの明晰さはさすがに惚れ惚れするものがあり、ドイツ語歌唱だって勿論立派なものだが、やはり母国語の強みを明白に感じさせる。楽曲は想像されるよりも声楽パートとピアノが拮抗した扱いであり、ピアノは単純な伴奏という域を超えている。ここにはシューベルトへの萌芽がある。
パドモアの劇的な歌唱がモーツァルトにしては迫力があり過ぎる気がしないでもない、しかしそれだけに訴えかける力の極めて強い『すみれ』と『ラウラに寄せる夕べの思い』、そしてモーツァルトとは逆にデュナーミクの幅を抑え目に取り、語句の意味を内に噛み締めるように聴かせたベートーヴェンの『アデライーデ』、多彩な声色の変化がけだし聴き物のシューベルト『すみれ』を経て、後半の『詩人の恋』がやはり最高の聴き物。『ぼくは恨まない』の屈折した感情の爆発、『聞こえてくるのは笛に弦』の痛切さ、『若いのが娘に恋をした』の自暴自棄ながらも自らを客観的に眺めている泣き笑いの表現の卓越…。
個人的にパドモアはシューベルト、それにも増してシューマンが素晴らしいと感じるのだが、さてどうだろうか。遅れたが、ポール・ルイスのピアノはパドモアとは逆に良い意味で饒舌ではない。控え目過ぎるという意味ではなく、出るところは出ながらもあくまで従に徹する。歌とピアノ双方で表現性を前面に出したならばうるさくなるのは自明で、このバランスは極めて好ましい。
さて、より期待していたのが第2夜。『リーダークライス』にはハイネ的なさらなる韜晦と浮遊性が欲しい気がしたし、より民謡的なプリミティヴさを残すブラームスについては表情が付き過ぎている感なしとしない(但し、筆者がブラームスの歌曲中最高作の1つと考えているロマンティックな作品『航海』は見事)。
シューベルトでは詩と曲の持つ絶対的な孤独と絶望感を掬い取った『竪琴弾きの歌』が随一の名唱だったが、それにも増して何と言ってもヴォルフである。パドモアのドラマティックな歌はヴォルフに合うだろう、と思っていたがこれが図星で、ポール・ルイスもここでは『ねずみ獲り』からそれまでとはガラッと変わって一気にボルテージの上がったかのようなキレキレの演奏を聴かせる。ヴォルフにあっては、曲にもよるが全般的には外面的な描写性や極めて押し出しの強い歌が必須だから、これは楽しい。ここでは酒にまつわる詩/曲、ユーモラスな詩/曲が集められており、その意味でも最高に盛り上ったのである(ドイツ・リートで盛り上る、というのも妙な話に聴こえようが、ヴォルフの歌にはそういう面があるのだ)。
ヴォルフの後にはアンコールにシューベルト『ギリシャの神々』。筆者はかなりのヴォルフ好きを自認しているが、そうは言ってもシューベルトに戻るとほっとする。この温かみある抱擁感はヴォルフに全くないものだ(余談だが、この日歌われたシューベルト『竪琴弾きの歌』でのゲーテの詩にヴォルフも付曲している。その極めてニューロティックな音楽は、ある意味で表現主義的にゲーテの詩を容赦なく掘り下げており、その音楽には震撼させられる。シューベルトとは別世界である)。
この2晩のリート・リサイタルにおけるパドモア、必ずしも絶好調だった訳ではない。粗さやフォルテでの高音のヒリつき感もある。しかし、その歌はそれらを越えて非常に訴えかける力の強いものだった。個々の曲については多少の出来不出来、あるいは向き不向きもある。しかし、最終的にはパドモアの真摯な歌の力には感動させられてしまうのだ。
批評は言うまでもなく重要だが(この文章が批評かどうかは心許ないが)、しかし批評の及ばぬ領域というものは確実にあって、それはこういう音楽について言えるのではないか。