名倉誠人 マリンバ・リサイタル2017|齋藤俊夫
名倉誠人 マリンバ・リサイタル2017 東京公演
「現代によみがえる古典―枕草子とバッハ」
2017年11月9日 東京文化会館小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:ムジカキアラ
<演奏>
マリンバ、ヴァイブラフォーン(*):名倉誠人
フルート:前田綾子(*)
朗読:北村千絵(*)
マリンバ:河野玲子(**)
<曲目>
J・S・バッハ/名倉誠人編曲:「コラール『キリストは甦りたまえり』BWV276」マリンバ独奏のための
(中断なしに次の変奏曲へ)
ベンジャミン・C・S・ボイル(1979- ):『バッハのコラールによる変奏曲』マリンバ独奏のための(2016、世界初演)
デイヴィッド・ショーバー(1974- ):『枕草子―古き日本の四季』ヴァイブラフォーン・フルートと朗読のための(2013)(*)
第1楽章:春は あけぼの
第2楽章:夏は 夜
第3楽章:秋は 夕暮
第4楽章:冬は つとめて
J・S・バッハ/名倉誠人編曲:『平均律クラヴィーア曲集第二巻』より「前奏曲とフーガ」マリンバ二重奏のための(**)
第15番 ト長調 BWV884
第20番 イ短調 BWV889
レーン・ハーダー(1976- ):『前奏曲とフーガ』マリンバ独奏のための
変ホ短調(2012)
変ニ長調(2016)
(アンコール)
J・S・バッハ:「マタイ受難曲」よりコラール「汝の道をゆだねよ」
J・S・バッハ:無伴奏チェロ組曲第5番より前奏曲
名倉誠人はこれまで数々の世界的な賞を獲得し、今も新作委嘱活動や教育活動を活発に続けている世界的なソロ・マリンバ奏者。今回はバッハを軸として、彼のために書かれた現代マリンバ作品を並べた意欲的なリサイタルであった。
しかし、色々と考えずに聴いていれば楽しい演奏会だったのかもしれないが、筆者にはいささかならぬ疑問が残る会となった。
まずはバッハのコラール。重いマレットを使ったマリンバの荘重な響き、特に時折入る最低音域の太い音が強く印象に残る。これぞバッハの宗教音楽というべき敬虔な音楽に感じ入った。
このバッハのコラールを主題として始まり、舞曲、バロック様式の歌曲風、子守歌などの変奏曲を次々と紡ぎ出して、最後にはまたコラールに帰ったボイル作品。なるほど、確かな技術による端正な作品であった。だが、バッハを越えよとは言わないものの、バッハとは違う何かを我々に突きつける、そのような野心を1979年生まれのこの作曲家には求めたかった。
ショーバー作品はバッハからは離れて、作曲者が「枕草子」英訳版を読んで「清少納言のはるかに遠い神秘的な世界を、再現しようとした試み」(プログラムより)である。全4楽章の冒頭に日本語、英語の順に北村千絵により枕草子が朗読された。しかし、「枕草子」は「あはれ」な随筆ではあれ、「神秘的」であったろうか?ヴァイブラフォーンとフルートが付かず離れずの距離を保ちつつたゆたい、弱音の中に消え行く音楽は、確かに「神秘的」であったが、それは本当に「枕草子」の世界の音楽だったろうか?
エドワード・サイードの言う「オリエンタリズム」、つまり、対象(「枕草子」に代表される「日本」)のイメージ(「神秘的な日本」)を勝手に想像し、それを真の姿とは関係のない「自分のもの」(つまり自分の作品)にしてしまう力学が筆者には見えてしまった。
後半は名倉がマリンバ二重奏に編曲した、バッハの平均律クラヴィーア曲集第2巻に始まった。
名倉のアプローチはバッハの対位法の各声部を明瞭に聴かせるのではなく、聴かせたい旋律線を優先して響かせるアプローチ。名倉が担当する高音が主で、河野の低音マリンバはほぼ伴奏のようであった。筆者としてはポリフォニーの構造をもっと聴き取りたいと感じたが、実に明朗快活な再現であったことは確かなので、このような解釈もまた良いものなのだろう。
そしてプログラム最後のハーダー、前奏曲とフーガという形式は取っているものの、バッハとはあまり関係なく、プログラムによれば変ホ短調はサミュエル・バーバーのピアノソナタ作品26のフーガ楽章を出発点としていた。前奏曲・フーガとも躍動感のある変ホ短調作品(しかしフーガ楽章のフーガ書法は筆者には聴き取れなかった)、硬めのマレットでの反復音型が拡大しながら最高音から最低音まで移動していく変ニ長調前奏曲、そしてやや逸脱した「遊び」とでも言うべき部分もあるも、確かにフーガ書法で書かれた変ニ長調フーガ楽章。この作品もまた巧みに作曲されていた。しかし、巧みながら、1976年生まれの作曲家の2013年と2016年の作品なのに、手堅すぎ、新しさ、若さが感じられないのだ。
アンコールで柔らかな「マタイ」の和声と硬質な無伴奏チェロ組曲の単旋律を聴きつつ、改めて「バッハは偉大だ」と感じたが、しかし、そのバッハに挑戦し、唯一無二の「自分の現代音楽」を創造しようとする意志が、今回取り上げられた若い作曲家達に見られなかったのがなんとも口惜しかった。
美しい音楽を安心して楽しく聴けたからであろう、ほぼ満員の聴衆は盛大な拍手をおくっていた。しかし、これでよいのだろうか?「現代音楽」とは、こういうもので良いのだろうか?筆者は帰路ずっと考えにふけっていた。