クリスチャン・ヤルヴィ サウンド・エクスペリエンス 2017|齋藤俊夫
トリフォニーホール開館20周年記念コンサート
クリスチャン・ヤルヴィ サウンド・エクスペリエンス 2017
2017年11月3日 すみだトリフォニーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)
<演奏>
指揮:クリスチャン・ヤルヴィ
新日本フィルハーモニー交響楽団
ピアノ:フランチェスコ・トリスターノ(*)
<曲目>
クリスチャン・ヤルヴィ:『ネーメ・ヤルヴィ生誕80年のためのコラール』(2017、日本初演)
フランチェスコ・トリスターノ:ピアノ協奏曲『アイランド・ネーション』(2016、日本初演)(*)
I.ベル・オンブル Bel Ombre
II.ジ・アイランダーズ The Islanders
III.オパ! Opa!
(アンコール)(ピアノソロ)
フランチェスコ・トリスターノ『ピアノ・サークル・ソングス』より『パストラル』『ラ・フランシスカーナ』
リヒャルト・ワーグナー作曲/ヘンク・デ・フリーヘル編『ニーベルングの指輪』~オーケストラル・アドヴェンチャー(1991)
I.前奏曲
II.ラインの黄金
III.ニーベルハイム
IV.ヴァルハラ
V.ワルキューレたち
VI.魔の炎
VII.森のささやき
VIII.ジークフリートの英雄的行為
IX.ブリュンヒルデの目覚め
X.ジークフリートとブリュンヒルデ
XI.ジークフリートのラインへの旅
XII.ジークフリートの死
XIII.葬送行進曲
XIV.ブリュンヒルデの自己犠牲
今回の指揮者、クリスチャン・ヤルヴィが、彼の父(指揮者ネーメ・ヤルヴィ)のために作曲した『ネーメ・ヤルヴィ生誕80年のためのコラール』。安らかな序奏の後、金管による4音か5音(正確には把握できなかった)のゆるやかなコラール主題が最後まで反復されるのを背景に、弦楽器と木管楽器がミニマル・ミュージック的な反復音型を輝かしく奏し、最後は穏やかに終曲する。
映画音楽のようだ、と拒否感を覚える人もいたかもしれないが、筆者にはそのような感触はなく、優しく温かな光に満ちた、自己主張・感情表出をしようとしないのが父への讃歌にふさわしい、ポスト・ミニマル・ミュージックの良作と思えた。
次の作品でソロピアノの自作自演をした1981年生まれのピアニスト・作曲家フランチェスコ・トリスターノは、フュージョン、テクノ、ワールドミュージックなどでも活躍している注目の才人である。
さて、そのピアノ協奏曲『アイランド・ネーション』、演奏会のチラシ(3種あるうちの1つ)には「音楽のスタイルは、今の時代を映し出したテクノだ」、プログラムには「KJ(引用者註:クリスチャン・ヤルヴィ)が指揮するグルーヴィーなオーケストラと共に、リズムとグルーヴを聴衆の皆様にお届けしたい」とあるのだが、残念ながら筆者はグルーヴしなかった。
現代アメリカのポスト・ミニマル・ミュージックの多くがポピュラー音楽、特にテクノ音楽の要素を取り入れており、本作もその系統に入るものだと言える。どこがジャズかロックかテクノか(あるいはタンゴもあったかもしれない)細かく指摘することはしないが、全体にそのような楽想が多々入り乱れ、そして弦楽器とピアノソロを中心にミニマル的反復音型が奏でられる。第2楽章では2台のスピーカーから拍を打つ音が鳴らされ、第3楽章では全楽器が同じ拍を打つ。だが、この拍打ちが「グルーヴ」しているとは思えなかった。
ポピュラー音楽自体はそれ自体の音楽世界を持っており、それは悪いものではない。しかし、その音楽を安易に取り入れた(あるいは取り入れようとして失敗した)この作品の底の浅さに白けてしまったのだ。白けた心の中でピアノのカデンツァは虚しく響いた。最後は指揮者も客席に向かって手拍子を要求し、聴衆も(おそらく)喜んでそれに応じていたが、筆者は手を束ねたままであった。
そしてアンコールのトリスターノの自己陶酔的な自作自演を聴いて、「この人はこういう人なのか」と残念な納得をしてしまった。
後半はワーグナーの超大作『ニーベルングの指輪』4部作を、物語の時系列に沿ってオーケストラ・パートを抜粋し一繋がりの作品として再構成した、約60分の交響詩的作品。「ワーグナーのオーケストレーションはこんなにもすごかったのか」と改めて感嘆したのは確かだが、しかし演奏は場面によって長短があったと言わざるを得ない。
第7場面「森のささやき」の木管群ののどやかな調べや、第10場面「ジークフリートとブリュンヒルデ」での目が覚めるような鮮やかな合奏はワーグナーもヤルヴィも新日フィルも素晴らしいと感じさせてくれたが、しかしその同じ指揮者・演奏者でも第1場面「前奏曲」から第4場面「ヴァルハラ」までは各パートの輪郭線がはっきりしていなかった。また第12場面「ジークフリートの死」から最終場面「ブリュンヒルデの自己犠牲」まではもっと劇的に、感情的になるべきではなかったか。そして最も重責がかかるホルンソロのジークフリートのライトモティーフは、若干とはいえ、音が震え、濁っており、押し出しが弱かった。
決して悪い演奏ではなかったが、しかし、「とても良かった」と言うには少々足りなく、音楽的な「ひらめき」とでも言うべきものが欠けていたと率直な感想を述べておきたい。