東京交響楽団第63回川崎定期演奏会|齋藤俊夫
2017年10月28日 ミューザ川崎シンフォニーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by ヒダキトモコ/写真提供:東京交響楽団
<演奏>
東京交響楽団
指揮:ダニエル・ビャルナソン
ヴァイオリン:神尾真由子(*)
<曲目>
ダニエル・ビャルナソン:『ブロウ・ブライト』(日本初演)
ドミトリー・ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン協奏曲第1番イ短調(*)
(アンコール)ニコロ・パガニーニ:『24のカプリース』から第24番(*)
ニコライ・リムスキー=コルサコフ:交響組曲『シェエラザード』
今回の指揮者ダニエル・ビャルナソンは、アイスランド出身の「ネオ・クラシックとエレクトロを融合させた斬新な作品」(プログラムの小倉悠加氏の記事より)をものしているとされる1979年生まれの現代作曲家でもあり、彼の自作自演(さらに日本初演)が聴ける今回のステージは大いに期待して臨んだ。
さて、そのビャルナソン自作自演であるが、たくさんの細かい断片的な音、特に打楽器群がそれぞれ複雑なリズム(全体的にも変拍子)で集合して明るく軽やかな音楽をなすのは、筆者の見るところ、ポピュラー音楽の「エレクトロニカ」と呼ばれる様式をほぼそのままオーケストラに移植したものであった。3部構成の第2部ではエレクトロニカ風の断片の集合から離れて、ヴァイオリンのソロやトゥッティ(クラスター含む)でのクレシェンドの重い波が奏でられるが、第3部ではまたエレクトロニカ風の音楽に戻り、金管が叫んで終わる。
確かに現代ポピュラー音楽の語法を取り入れた作品ではあったが、新しい音楽とは思えなかった。
まず、DTM(デスクトップミュージック)が一般化した頃、つまり1990年台終わりに始まったエレクトロニカというジャンルはポピュラー音楽でも決して新しいものではない。そしてまた、断片的な音を集めて1つの音楽にするという手法を用い、しかもポピュラー音楽的な要素を取り入れた現代音楽としては80年台の吉松隆に『チカプ』『天馬効果』『鳥たちの時代』などがあり、それらはこのジャンルが誕生する以前のものである(しかし吉松よりポピュラー音楽におけるテクノ・ミュージックの方が古いのだがここでこれ以上遡ることはしない)。
だが、肝心なのは新旧の差ではなく、吉松や現代エレクトロニカの諸作品の方が本作品より音楽的に完成しており、また新鮮であるということなのだ。ポピュラー音楽に学ぶことは悪くないが、しかし、それだけでは「現代音楽としては」足りないのである。
そして、続く2作品で、指揮者としてのビャルナソンの実力にも疑問符をつけざるを得なかった。
神尾真由子をソリストに迎えてのショスタコーヴィチ、『ヴァイオリン協奏曲第1番』は聴いていて歯がゆくなる演奏であった。神尾の奮闘にオーケストラが全く応えてこない。神尾は必死にショスタコーヴィチのアイロニーと強迫観念に満ちた音楽を表現しようとしているのに、オーケストラは淡々と音を出していくだけ。サッカーに喩えるならば、フォワードの神尾がボールを取って走っているのにミッドフィルダー達が彼女についていこうともアシストしようともしていない。東京交響楽団がこんな演奏をするはずがない、と思わざるを得なかった。アンコールでの神尾の溌剌とした独演を聴きつつその思いは深まった。
そして『シェエラザード』、リムスキー=コルサコフの絢爛たるオーケストレーションをいかに聴かせられるかが真価のこの作品で、ああ、なるほどと思った。繰り返されるヴァイオリンのシェエラザードの主題をはじめとして、各楽器がソロを奏でるときの個人技にはいささかの曇りもない。だが、合奏するとその響きから精彩が失われる。強音のパートが他を圧して弱音のパートは聴こえず、弦楽、木管、金管がお互いにアンサンブルすることなくバラバラに自分の譜面を演奏するだけで、オーケストラという有機的組織が生きていない。
先のショスタコーヴィチも、このリムスキー=コルサコフも、オーケストラを統率すべき指揮者にそれができていなかったとしか考えられない。もっとオーケストラの音を聴いて、それを的確に導いてもらいたかった。
皆の期待を背負った新人を矯めたくはない。しかし、このままではいけない、そう強く感じたダニエル・ビャルナソンとの出会いであった。