白井光子&ハルトムート・ヘル|藤堂清
2017年10月28日 第一生命ホール
Reviewed by 藤堂 清(Kiyoshi Tohdoh)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
白井光子(メゾソプラノ)
ハルトムート・ヘル(ピアノ)
<曲目>
シューマン:
献呈 Op.25-1(詩:リュッケルト)
出会いと別れ Op.90-3(詩:レーナウ)
ひそやかな愛 Op.35-8(詩:ケルナー)
心の通いあい Op.77-3(詩:ハルム)
歌曲集《女の愛と生涯》Op.42(詩:シャミッソー)
私が彼を見た時から/彼は誰よりも素晴らしい人/わからない、信じられない
私の指の指輪よ/手伝って、妹たちよ/やさしい人、あなたは見つめる
私の心に、私の胸に/今、あなたは私に初めての苦痛を与えました
——————–(休憩)———————-
ブラームス:
夜鳴きうぐいす Op.97-1 (詩:ラインホルト)
すばらしい夜 Op.59-6(詩:ダウマー)
ひばりの歌 Op.70-2(詩:カンディドゥス)
我らはさまよったOp.96-2(詩:ダウマー)
セレナーデ Op.106-1(詩:クーグラー)
ヴォルフ:
眠りなき者の太陽(詩:バイロン)
4月の黄色い蝶 (詩:メーリケ)
棕櫚(しゅろ)のこずえにただよう天使よ(歌曲集「スペイン歌曲集[宗教的]」より)
わたしの巻き毛のかげで(歌曲集「スペイン歌曲集[世俗的]」より)
ミニョン「君よ知るや南の国」(詩:ゲーテ)
——————(アンコール)——————-
ヴォルフ:似たものどうし
フランツ:美しき五月
シューマン:くるみの木
ウェーベルン:似たものどうし
白井光子の声には固い芯があり、それがカツンと聴く者を叩いていく。言葉が鮮明であることも、弱声で歌っても響きが痩せないことも、中にある芯がしっかりしているためだろう。
だが、この日の出だしは印象が異なるものだった。最初の〈献呈〉、言葉としては聴こえてくるのだが、声が響かない、遠くで鳴っているような印象。彼女にとって、70歳という年齢の影響は大きいのだろうか?
ハルトムート・ヘルのピアノも抑え気味に感じられる。いつものダイナミクスの大きな踏み込んだ演奏とは異なる。白井の声を気遣ってのことか?
そんな疑問のうかぶ出だしであった。
《女の愛と生涯》に入ると声自体は響くようになってきた。それによって歌としての表現は聴き取れるようになったが、〈わからない、信じられない〉と歌うときも、心の弾みが少し遠いところのできごとのように聞こえる。まるで、昔のことを思い返しているかのような。
彼女の歌うこの歌曲集、実演では初めて聴いた。若い時の録音では聴いているが、そこでは彼女の声も表現も若さにあふれている。この日の演奏との違いにとまどいを感じた。
最後の曲、〈今、あなたは私に初めての苦痛を与えました〉でも、今起こった苦しみというより、ずいぶん前のことを振り返って「あのときは、辛かった」といっている、そんな印象を受けた。
まるで、シャミッソーの最後の詩〈かけがえのない日々の夢も〉(シューマンは省略)の時点から振り返っているような演奏に感じられた。
後半は特定のテーマで統一されているわけではないプログラム、一曲一曲の表現を聴くことになる。そうなれば彼女の言葉さばきが活きる。
ブラームスの〈我らはさまよった〉での息の長い節に載せて歌われる”wandelten”という言葉、その母音の色合いの変化に白井の真骨頂を聴く。
ヴォルフの〈眠りなき者の太陽〉では、以前の彼女と同じ「芯」を感じさせた。その後のこの作曲家の歌は、彼女の表現が活きるもの。「君よ知るや南の国」まで多様な世界をみせてくれた。
ピアノについて最初に感じたことは最後まで変わらなかった。白井が以前の声でないことに合わせ、リート・デュオとして最上の結果を生むための判断だったのだろう。二人で作り出す音楽、それは二人の「今」によることを教えてくれたように思う。
アンコールは4曲、最初と最後にゲーテの同じ詩によるヴォルフとウェーベルンの短い曲ではさんだ。「似たものどうし」、この詩の最後の節 “Die müssen wohl beide für einander sein(彼らは互いのためにある)” に白井とヘルの二人の気持ちが込められているように感じた。