シュニトケ&ショスタコーヴィチ プロジェクトⅠ――室内楽|片桐文子
トッパンホール
シュニトケ&ショスタコーヴィチ プロジェクトⅠ――室内楽
2017年10月1日 トッパンホール
Reviewed by 片桐文子
Photos by 大窪道治/写真提供:トッパンホール
<曲目・出演>
ショスタコーヴィチ:ヴァイオリン・ソナタ Op.134
山根一仁(vn)、北村朋幹(pf)
シュニトケ:ピアノ五重奏曲
北村朋幹(pf)
モルゴーア・クァルテット
荒井英治(vn)、戸澤哲夫(vn)、小野富士(vla)、藤森亮一(vc)
シュニトケ:ショスタコーヴィチ追悼の前奏曲
山根一仁(1st vn)、荒井英治(2nd vn)
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲第15番 変ホ短調 Op.144
モルゴーア・クァルテット
ショスタコーヴィチ(1906-75)とシュニトケ(1934-98)。トッパンホールが今シーズンの開幕に持ってきた、超重量級のプログラム。演奏者の顔ぶれを見ても、ホールの面目躍如、必聴の企画である。
旧ソ連という息苦しい国家体制のもと、芸術家がどのような表現をとり、何を音楽で伝えようとしたのか。聴きながら自問自答し、考えさせられる。2人の作曲家はまぎれもなく地続きであることがよくわかる。しかし、やはりひと世代の年齢差、国情の差もはっきりと感じさせられる。興味深いプログラム。
オイストラフの60歳の誕生祝として書かれたショスタコーヴィチの『ヴァイオリン・ソナタOp.134』(1968)。お祝いの明るい気分などさらさらない陰鬱・悲痛な曲調で、弾かれる機会も少ない。聴いていて思ったのは、ここにはおそらく、オイストラフならではの手蹟(演奏するときの身振り――身体的なクセ、好んだフレーズ、特徴的な奏法……)がそこここに生かされているのではないか、ということ。当のオイストラフだけが弾いてわかる、ショスタコーヴィチのオイストラフに対する賛嘆・敬意、二人が共有するあれこれの思い出、喜びや苦難……が音楽に盛り込まれているのではなかろうか。だとしたら、オイストラフには何よりの贈り物だったろう――他の人間にとっては弾きにくい/弾いてもよくわからない曲になるのも当然――そんなことを勝手に想像しながら聴いた。祝いの曲というのは何も、聴いている人たちが喜んで盛り上がるものとは限らない。
山根一仁は、同ホールの若手登竜門エスポワール・シリーズに抜擢された際も、ショスタコーヴィチとシュニトケをプログラムに組んだという。弾きこなせる技巧とともに、若さゆえの覇気、華のある舞台姿、全身全霊で作品に没入していく姿は好もしい。
シュニトケの『ピアノ五重奏曲』(1972-76)、モルゴーア・クァルテットがベテランならではのゆとりと遊び心を発揮しながら丁々発止の駆け引きを繰り広げるなか、若い北村朋幹が一歩も引かず、堂々とピアノでリードする。出るところは出て、と音量・音質のコントロールも素晴らしい。室内楽で、または歌とのデュオで、この人のピアノをもっと聴いてみたい。ソロは物足りない、などという意味では決してなく、アンサンブルの醍醐味をしっかり味わわせてくれるピアニストは貴重だから。
後半は、シュニトケによる、『ショスタコーヴィチ追悼の前奏曲』(1975)から始まる。山根のソロに、後半、舞台外から荒井英治の第2ヴァイオリンが絡む。シュニトケの内に響くショスタコーヴィチの声、だろうか。心から尊敬し、その足跡を追ってきた人に呼びかけ、それに答える声も聞こえたような気がして……。誕生祝ではなく追悼の曲だが、魂の交歓という意味で、対をなすプログラムのよう。
最後はモルゴーア・クァルテットの演奏で、ショスタコーヴィチの『弦楽四重奏曲第15番』(1974)。ここまでの曲目の重さ、若い奏者たちの果敢にして真っ直ぐな挑戦に、ちょっと、息詰まる思いだったのが、すこしほぐれた。年輪を重ねた奏者ならではのゆとり、達観。死の前年に書かれた最後のカルテットだから、というだけでなく、ショスタコーヴィチはやはりこういう奏者たちでないと表現し得ない音楽なのでは、とも思った。心に淀む苦い思い、諦念、それでもいまだ生々しい痛みをもって湧き上がる憤怒。ショスタコーヴィチの音楽を聴くと、乾いた、声のない哄笑をそこここに聴く思いがする。他人を嗤い、自分を嗤い、時代を嗤う。単純な軽蔑でなく、単純な自虐でもない。それを表現できるのは、やはり相応の年輪なのだろうと思う。
聴き終わって心に残ったのは、やはりショスタコーヴィチはすごい、ということ。人間精神を圧しつぶすような文化のもと、あれだけの音楽が生まれた。だとすると、平和で豊かで安全な場からは、どんな音楽が生まれるのだろう。なにが音楽にとって幸福なことなのだろうか?