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エベーヌ弦楽四重奏団|藤原聡

エベーヌ弦楽四重奏団

2017年10月7, 10日 Hakuju Hall
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
エベーヌ弦楽四重奏団
 ピエール・コロンベ、ガブリエル・ル・マガデュール(ヴァイオリン)
 マリー・シレム(ヴィオラ)
 ラファエル・メルラン

♪2017年10月7日 CLASSIC Program
ハイドン:弦楽四重奏曲 第76番 ニ短調 Op.76-2 Hob.Ⅲ‐76『五度』
フォーレ:弦楽四重奏曲 ホ短調 Op.121
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第13番 変ロ長調 Op.130『大フーガ』付き

♪2017年10月10日 CLASSIC+JAZZ Program
モーツァルト:弦楽四重奏曲 第15番 ニ短調 K.421
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第11番 ヘ短調 Op.95『セリオーソ』
ウェイン・ショーター『フットプリンツ』
エルメート・パスコアル『べべ』
マイルス・デイヴィス『マイルストーン』
セロニアス・モンク『ラウンド・ミッドナイト』~エロール・ガーナー『ミスティ』
チャールズ・ミンガス『フォーバス知事の寓話』
ブラッド・メルドー『報われぬ想い』
ウェイン・ショーター『アナ・マリア』
エデン・アーベ『ネイチャー・ボーイ』
(アンコール)
アストル・ピアソラ『リベルタンゴ』

 

エベーヌ弦楽四重奏団の実力はもちろん録音で知ってはいたはずであったが、その本当の凄さは実演に接してみないと分からない、と痛感させられたHakuju Hallホールにおける2回のコンサート。筆者は実演初体験であるが、分かる、と言うよりもそのエネルギーを「浴びる」、と言う方が適切とすら思える(尚、今回のツアーではヴィオラのアドリアン・ボワソーが腱鞘炎のために来日不能となり、代わりに室内楽奏者として活躍しているマリー・シレムがツアーに同行したのだが、彼女がまた代役とは思えぬシンクロ度を示し、ボワソーの経過のこともあるのだろうが、ツアー後にシレムがエベーヌSQの正式メンバーに迎えられたとのこと)。

初日の7日はまずハイドン。冒頭から極めて鋭角的、輪郭のはっきりとした演奏で驚く。Hakuju Hallのキャパシティからすれば少し鳴らし過ぎか、と思うところもあり、ホールの本番での響きに慣れていないこともあろう、響きのまとまりにやや欠け粗い印象。とは言えその演奏はただ元気が良いだけではなく、多彩なボウイングとヴィブラートの細やかな使い分けによる瞬時の音色と表情の変化、そして自在なフレージングは驚異的であり、弦楽四重奏という演奏媒体でここまでそれぞれが大胆に振舞いつつも一個の有機体として全く揺るがず乱れない、というその演奏のあり方自体が過去の弦楽四重奏団と比べて決定的に新しく、これまた驚くのだ。古典的だとかバロック的、だとかいう形式を逸脱している訳ではないが、それより何より徹頭徹尾「エベーヌ流」であり、しかもわざとらしさや押し付けがましさがなく、あくまで自然だ。好き勝手にやっているのとは違う。何と言う音楽性か。

と思うや否や、名品でありながらも実演でなかなか演奏されないフォーレの渋い弦楽四重奏曲では、曲の要請と言ってしまえばそれまでだけれど、ハイドンとは打って変わって内省的な沈滞を見せる。ヴィア・ノヴァSQのERATO盤に匹敵する演奏だと思ったが、ハイドンとフォーレ、この両曲における演奏の振れ幅が実に大きく、聴き手が「エベーヌとはこのような演奏をする団体である」と安易にレッテルを貼ることを拒む。例えば、アルバン・ベルクSQもスメタナSQもラサールSQも、その演奏の全体性を把握することは難しくない。アルディッティSQだってエベーヌの好敵手(と勝手に思っている)パヴェル・ハースSQだってそうだ。しかしエベーヌSQは違う。この辺り、彼らが決定的に新しい(またこの形容詞を用いるが)点とは言えまいか。ポスト・モダンといういささか陳腐化した形容詞からもとっくに自由と感じられる。彼らに歴史意識がないという事ではない。それを一旦忘れた上でしなやかに泳ぎ回る。

ベートーヴェンの第13番はどうか。この曲はいかにも晩年のベートーヴェンらしく、弁証法的な展開から自由となってアフォリズム的な楽章が並列的にポン、と投げ出されているような不可思議な構成を持っている。言い換えればある種の「不連続性」「断絶」が際立つ曲と言いうる。しかるに、エベーヌの演奏にはまったく屈託と逡巡がなく連続性も感じられ、その演奏は爽快、とすら形容できるものだ。サイード的に言えばベートーヴェンの「晩年様式」的な表現性とは別の地平に立つ演奏。エベーヌはここでも先の読めぬ自在さを発揮するが、ここで筆者の先入観(?)が邪魔をする。ベートーヴェンの晩年作品らしくないよね。この齟齬を大事にしたい。エベーヌはなぜそう演奏したのか。筆者はなぜそう感じたのか。齟齬は観念を強化するのではなく解きほぐすと捉えたい。こういうベートーヴェンの第13番もあり。か。しかし『大フーガ』の高揚は強烈、の一語。これは掛け値なしに凄い。こんな曲を200年以上前に書いたベートーヴェン、そりゃあ理解される訳がない。改めてそう思わせたエベーヌの勝ちか。終演は確か19:30(17時開演)近く、アンコールはなし。それも当然と思える。

 

2日目はクラシック+ジャズプログラム。後半ジャズの怒涛のグルーヴ感は従来のクラシック演奏家にはまず出せない類のもので、そのアレンジの秀逸さも含めて十分に堪能させてもらったが(アンコールのピアソラも最高で、昔大いに流行った某ヴァイオリニストのピアソラと比べ「ノリ」が雲泥の差)、この日はジャズ以上に前半のクラシック演奏にこちらの神経が研ぎ澄まされっ放しである。モーツァルト第1楽章では、初日のハイドンやベートーヴェン演奏から想像されるようなAllegro 「molto」ではなく指定通りのAllegro moderato(moltoな演奏も多いのだ)。その中で猫の目のように変化する表情がこれまた凄い。どうしたらこのような演奏が可能なのか。1stのコロンベによるかすれ気味のソット・ヴォーチェから虚無的に忍び寄り膨らむ冒頭主題。頭2小節でもう他の演奏と違うが、わずかに感知できるくらいのフレーズ間「溜め」、ためらいがちなルバート、そしてコロンベと完全に歩調を合わせる3人、とりわけ内声2人の雄弁さと俊敏なレスポンス…。メヌエットではトリオが絶美、ここでもコロンベの音色としなやかな節回し、それを支える3人のピツィカートのこれしかない、というタイミング、絶妙な間(ま)、そして音質。主部に戻る際の効果的なルフトパウゼ。終楽章では長調の穏やかな変奏が殊に美しく、前後の変奏との対比の効果も著しい。各変奏では反復毎にニュアンスが微妙に変化するのも素晴らしければ、最後に柔らかくディミニュエンドするのもまた何と言うセンスか。

この調子で書いて行くとキリがないが、『セリオーソ』冒頭楽章と第3楽章では激烈に速いテンポによる凄まじいエネルギーの放出を聴かせ、対する第2楽章の穏やかさはどうだ。ここでもマリーのヴィオラを筆頭に内声の表現力が際立ち(特に終楽章)、それだからこそただ勢いがあるだけではない4声の立体的なパースペクティヴが際立つと言うもの。

褒め過ぎ?そう思われる実演未体験の方は次回来日(2019年らしいです)にとにかく会場に駆け付けられたい。他の多くの団体とはその持ち味が違うので目立つ、という側面はあるにせよ、ちょっと次元の違う連中だという事がたちどころに理解できる。