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オペラ「Four Nights of Dream」|谷口昭弘

舞台芸術創造事業
夏目漱石生誕150年記念/東京文化会館・ジャパン・ソサエティー(ニューヨーク)国際共同制作

オペラ「Four Nights of Dream」【日本初演】

2017年10月1日 東京文化会館 小ホール
Reviewed by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演目>
長田原作曲・台本:オペラ《Four Nights of Dream》原語(英語)上演・日本語字幕付き(新演出・日本初演)
(夏目漱石の『夢十夜』の「第二夜」「第十夜」「第三夜」「第一夜」を原作としたオペラ作品)

<演奏>
演出:アレック・ダフィー
舞台監督:田中義浩、アリッサ・K・ハワード

ナレーター/女声コーラス1:マリサ・カーチン(ソプラノ)
侍/男声コーラス1(息子):マコト・ウィンクラー(バリトン)
女声コーラス2/婦人:グロリア・パーク(メゾソプラノ)
庄太郎/男声コーラス2/男性:ジェシー・マルジィリー(バリトン)
健さん/父親:クリストファー・ソコロフスキー(テノール)
男声コーラス3:ロッキー・セラーズ(バス)
管弦楽:Tokyo Bunka Kaikan Chamber Orchestra
指揮:謙=デーヴィッド・マズア

 

夏目漱石生誕150周年で様々な催し物が行われているが、オペラ『Four Nights of Dream』は漱石の『夢十夜』を題材にしたオペラである。「こんな夢を見た」という書き出しで始まる10の幻想的エピソードが集められたオムニバス形式の小説の中から長田原が4つの夢を選び、台本を書き、作曲をした。順番も小説とは違うが、おそらくオペラの流れにふさわしいように考えられたものだろう。原作では第二夜、第十夜、第三夜、第一夜のそれぞれがオペラの第一夜から第四夜となっている(以下レビューはオペラの「夜」の番号に従っていく)。

第一夜は和尚から「無」とは何かという課題を和尚から与えられ、悟りに達しようと座禅を組む侍が登場する。しかし侍は「悟りに達しなければ武士ではない」と馬鹿にされた和尚のことばかりが気にかかり、苦悶しつづけ、そうする間に時が来たことを知るというストーリーである。リブレットにはト書き部分がほとんどなく、基本は侍のモノローグで進む。音楽は登場人物の心の動き、言葉のニュアンスを大切にし、無を得ようと格闘する登場人物の心を細やかに描きつつ、止まることのない胸騒は大胆に表現していく。また白か黒かの単色の照明が印象的な舞台に呼応するように音楽もモノトーンを基調とする。そしてスネアドラムやトムトムの強烈な音が鼓動を、管楽器の息音、弦楽器のハーモニクスやグリッサンドが苦悩する侍を描いていた。途中から女声二人も場に参加。侍が見る幻想なのか、心の声なのか。全体はダイレクトで分かりやすい一方で、“Zen” “Samurai” などという英語が冒頭から聞こえてくると、どうしても「これは海外向け台本なのかな」と思ってしまうのは、聴き手の一人である私が日本人であるから起こる偏見に違いない。

第二夜は白いスーツにパナマ帽の庄太郎が登場。庄太郎は果物屋で出会った美しい女性が持つ籠を家まで持とうと申し出るが、やがて彼は大きな崖の絶壁に連れてこられる。ここで庄太郎は七日六夜、次々とやってくる豚を追い払わねばならなくなる。しかし彼は力尽きて豚に舐められてしまうのであった。第一夜と打って変わって第二夜は「健さんと私が庄太郎の物語を語りましょう」とにこやかに客席に呼びかける男女二人がナレーション役をつとめ、コミカルに進めていく。豚が庄太郎に向かってやってくる場面ではかわいらしいぬいぐるみが使われ、庄太郎を舐める最後の豚は巨大なぬいぐるみ。会場からは笑い声も起こっていた。きらきらとしたグロッケンやピアノの音も楽しく、筆者はアメリカのジャン・カルロ・メノッティのオペラを思い出しながら聴いた。

第三夜は盲目の息子を背負う父親が登場。大人のような声を持つ息子は実は百年前に殺した男だったという話。白いシルクのような出で立ちの父親が蛍光灯で照らされたリュックのようなものを担ぎ、客席通路をゆっくりと歩む。この第三夜では男声のヴォーカル・アンサンブルがナレーション役をつとめる、日本の「語り物」のような進め方だった。不気味な雰囲気の中、雅楽の笙を思わせる和音、楔を打ち込むようなトムトムの響き、そして静かな語りセリフの対話による心理劇が進む。種明かしの場面では高弦の叫びのような音が衝撃的に鳴らされた。

第四夜は男女の愛の物語。死の間際に女は男に遺言する。「星の破片を自分の墓標に置き、墓の傍らで待って欲しい。100年待ってくれたら会いに行く…。」話はこれまでよりずっとストレートだが、描写的な演出はあえて避けられていた。例えば最初の場面、男女は立ったまま下手で歌う。その後もシンボリックに表現する身振り手振りが使われ、聴衆の想像力を掻き立てる。音楽的には20世紀の調性音楽が開拓した様々なスタイルが柔軟に使われ、随所で聴き手の心を引き寄せる。100年待っている男が懐疑的になる場面では第一夜に似たようなオーケストレーションによる苦悩が、しかし一輪の花となって帰ってきた女を目の当たりにした男の場面では、文豪漱石の美に迫る一瞬が音楽にもあり、眩しい光のようなエンディングに喜びが表現されていた。

原作に従ってオペラの方もオムニバス形式といった印象を持ったが、その分、それぞれの話に合わせて音楽語法を器用に使える作曲者長田にまずは興味を持った。この柔軟性というのは、21世紀の音楽を語る上でのキーポイントになってくるだろう。しかもその柔軟性が漱石の多面的・多層的な物語を引き立てることになっていた。
また会場が小さいこともあって声が良く聞こえたのは初めて聴く作品にとってはありがたかったし、題材の違いによる声色の使い分けなど、粒揃いの歌手陣が作品の楽しみに貢献したのは明らかだった。故クルト・マズアの子息である謙=デーヴィッド・マズアのきりりと引き締まったリードも90分の長丁場を飽きさせずに聴かせた要因だろう。
それにしても独奏独唱や室内楽のイメージがある東京文化会館の小ホールで、よくオペラ上演をやったものだ。演奏・上演スペースは通常のステージより客席側に広げられ、オーケストラは下手側に配された。そして上手側の上下・前後を使って、歌手たちが演ずる3つの上演空間が作られていた。場合によっては客席も使うなど、オペラの上演の様々な工夫を目の当たりにしたのも、本演目の醍醐味の一つだった。