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イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノリサイタル|片桐文子

イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノリサイタル

2017年10月20日 サントリーホール
Reviewed by 片桐文子(Fumiko Katagiri)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
イーヴォ・ポゴレリッチ(pf)

<曲目>
クレメンティ:ソナチネ ヘ長調 op.36-4
ハイドン:ピアノ・ソナタ ニ長調 Hob.XVI:37
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調 op.57「熱情」
ショパン:バラード第3番変イ長調 op.47
リスト:『超絶技巧練習曲集』から
  第10番ヘ短調、第8番ハ短調「狩り」、第5番変ロ長調「鬼火」
ラヴェル:ラ・ヴァルス

 

休憩時間に、こんなやりとりが近くの席から聞こえてきた。
「どう?」
「うん……悪くはないよ……でも、すごくいいってわけでもない。」

ミもフタもない言いよう。
若いころは、コンサートに行ってうっかりこんな言葉を耳にしてしまうと、心底がっかりしたり腹を立てたりしたものだった。……「上から目線」で勝手なことを! 芸術家がどんな思いで曲を書き、演奏しているか、理解しようともしないで!

でもこのごろは、素直に、そうだよねぇ、とうなずくことが多い。
舞台裏のあれこれの情報や、アーティストのこれまでの実績や華やかな言動を脇において、フラットに演奏を聴けば、なるほどそうとしか言えない、ということが多々ある。先日も、ある高名なピアニストを聴きに行き、休憩中に「もう帰りたい」と呟くお客さんの声を耳にして、思わず深く(心で)うなずいてしまった。批評家は多くが賞賛のコンサートだったのだけど。

それで、この言葉をきっかけに考え始めたのは、「悪くない」と「すごくいい」のあいだには何があるのか? ということ。この演奏がすごく良くなるためには、何が必要なのだろう?

前半は、面白く聴いた。クレメンティ、ハイドン、ベートーヴェン。古典の名曲ばかりだ。かっちりとした形式、感情の表出に制約のある音楽のほうが、ポゴレリッチの融通無碍の(いわば楷書に対する草書の)「崩し」が魅力的に響いてくる、のかもしれない。
いちばんいただけなかったのは後半冒頭のショパン。ポゴレリッチは、この曲を弾きたくなかったのだろうか? それならなぜプログラムに入れたのか? そのような要請があったのか? そう勘ぐりたくなるくらい、気のない演奏。
そしてリストからラヴェルへ。
面目躍如というべきか、絢爛たる超絶技巧。そして、あのサントリーホールを、まるでフルオーケストラのような豊穣な響きで満たすパワー。音の美しさを保ったまま、あそこまでピアノという楽器を鳴らすことができるとは!
でも残念ながら、私はこの音楽に入っていけなかった。自分とは関係のない音響が、すさまじいパワーと圧倒的な技術で延々と繰り広げられている。その様子をただ茫然と眺めて……。でもこのパフォーマンスを楽しみにしてきたお客さんも多いのだろう、ひときわ大きな喝采なのだった。

このちぐはぐな感じは、開演前から始まっていた。
会場に入ると、静かなピアノの音が響いている。ふと見ると、毛糸の帽子にジャージ風のむさくるしいおじさんが舞台に……ポゴレリッチだ……(失礼、でもあの服はいくらなんでも)。そして開演10分前。いっこうに席を立つ気配のないポゴレリッチにスタッフの女性が近づき、腕時計の文字盤を指し示しながら、なにやら懸命に説得している様子。しぶしぶ立ち上がるポゴレリッチ。

舞台近くの客席通路には多くの女性客が佇んで即興演奏に聴きほれ、鬼才ポゴレリッチのエキセントリックな振る舞いを肯定的に受け止めている様子。でも私には、一連の出来事がたいそう芝居がかって見え、かえって期待をそがれてしまった。コンサートという「制度」に、そういった形で抵抗してみせる? なんだか懐かしいような振る舞いではないか。それとも、定められた曲を弾くだけではつまらない、もっと違う形で聴衆とコミュニケートしたい。そういう意志の表れだろうか? そして本番、改めて舞台に現れたポゴレリッチは、大きな体を窮屈そうに燕尾服に包んで、はにかんだ笑顔でぺこりと客席に挨拶するのだった。

ポゴレリッチは1958年生まれ。日本ふうに言えば来年は還暦だが…… なんとはなしに「恐るべき子ども」の面影が残っているような。ショパン・コンクールで審査員たちがポゴレリッチの評価で割れ、怒ったアルゲリッチが「だって彼は天才よ!」と言ったのは有名なエピソード。でも、それももう三十数年前のことだ。
余計なお世話でしかないのだが……
彼自身は今、舞台でピアノを弾くことを幸福と感じているだろうか? 音楽でもって聴衆と真にコミュニケートする喜びをかみしめているだろうか。天与の才を与えられたことに感謝し、この喝采を心から嬉しいものとして受け止めているだろうか。
私には、どういうわけか、彼の内に埋めようのない空虚、虚しさが巣くってしまっているように見えて、気が塞いだ。これではない、何かを。今もなお求めて、見つけられないでいるような……

思うに、音楽を生業(なりわい)とすることによって生まれた虚しさであるならば、音楽でしか埋められない。言葉や行動や、音楽の外のものをあれこれ工夫してみても、いっときの新鮮さはあるにしても、本質的な解決にはならないだろう。

「すごくいい音楽」とは何か。聴衆の魂を奥深くから揺さぶる力をもった音楽? だとしたら、それは少なくとも、他ならぬ演奏者自身が切望して初めて実現できるものではないだろうか? そんなふうに考えながら会場をあとにした。