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ハイナー・ゲッベルス×アンサンブル・モデルン 『Black on White』 |能登原由美

ハイナー・ゲッベルス×アンサンブル・モデルン 『Black on White』 エドガー・アラン・ポーとモーリス・ブランショのテキストに基づく音楽劇

2017年10月27日 京都芸術劇場 春秋座
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 井上嘉和/写真提供:KYOTO EXPERIMENT

<構成・作曲・演出>
ハイナー・ゲッベルス

<出演>
アンサンブル・モデルン

 

全てを見透かされているような気がするのだ。こうして何かを書こうとすると。今、あの瞬間が何だったのかを振り返ろうとすると自ずと縛られる。言葉に、コンテクストに。途端に「そうではない」と囁く声がする。「そうではない」何かを追い求める。再び「そうではない」と耳元で囁かれる。「そうではない」何かとは何なのか。あえていえば、言葉もコンテクストをも絶えずくぐり抜けようとする欲求、だろうか。

「音楽劇」というが、始まりはない。マイク・テストのように舞台上から漏れ聞こえる声、機材の調整と見紛う機械音、セッティングとともに生じる雑音、客席の喧騒、係員の案内の声。会場全体に集積される音。音の塊は徐々に舞台上へと移動し、やがてドラムとエレキベースの律動的な音の波へと収斂されていった。

とはいえ、「奏者」というカテゴリーは無意味であると思い知らされる。舞台の上では、テニスボールを投げる者、太鼓を転がして遊ぶ者、ボードゲームに興じる者、楽器を鳴らして遊ぶ者。そういえば、楽器を鳴らすことも、ボールを投げることも、ゲームをすることも「プレイ」だった。舞台上で繰り広げられるさまざまな「プレイ」の形。

その瞬間、「そうではない」という声が聞こえてくる。よく見ると、舞台上の「プレイヤー」たちはいつの間にか楽器を携えている。やはり音楽劇だったのか。いや、これは「劇」なのだろうか。それにしては、この舞台には前も後ろもない。皆それぞれ思い思いの方を向いて演奏している。舞台の正面はあちら側であるかのように、背を向ける者もいる。そういえば、舞台と袖の境目もない。あるのは空間だ。途切れのない空間だ。不意に現れては消えていく者。音とともに現れ、消えていく者。動き回る個と個、音と音。個と音の、離合と集散が絶えず繰り返されていく。ここには中心も周縁もない。

「影」は一つのキーワードだろう。断続的に読み上げられるテキストの中には、エドガー・アラン・ポーの小説『影』も含まれる。舞台中央に置かれた巨大なスクリーンには、手前にいる奏者の姿がライトによって照らし出されている。手前にいる生身の奏者とスクリーンに映える影の奏者による共演。本物はどちらなのだろう。生身の体から遊離した影が、いつしか自由な意志をもってスクリーンの中で踊り出すかのように見えてくる。

と思えば、またしても「そうではない」という囁き。スクリーンの背後にいた奏者たちが、影を振り払い生身の体をさらけ出して楽器を奏し始める。ただし、楽器の側からすれば、いつも同じ人間に、同じやり口で扱われるのは退屈なのかもしれない。人と楽器の固定した関係性は永続せず、どれも束の間の出来事のようにさりげなくすり替えられていく。こうして目の前で積み上げられたものは、引き倒される舞台上のセットもろとも突き崩される運命にある。

構築されたと思えば破壊される。繋がったと思えば断たれていく。意味は絶えず無意味化され、関係性は常に絶たれる。目にしたもの、耳にしたものについて語ることはできる。現象だけをありのままに。けれどもそれが何だったのか、「何か」の枠や形、その意味を語ることはできない。語ることを拒否する音、それを取り巻く時間と空間、だったとしか、私には言えない。