男声合唱団クール・ゼフィール 第11回演奏会|齋藤俊夫
2017年10月9日 JTアートホールアフィニス
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:クール・ゼフィール
<演奏>
指揮:西川竜太
男声合唱:クール・ゼフィール(青山和弘、小野塚悟、改田拓也、河合正芳、東原裕次郎、平原達規)
<曲目>
金井勇:『something there』for four male voices (2014、初演)
星谷丈生:4声のための『枯蓮 withered lotuses』(2014・東京初演)
渋谷由香:男声6声のための『海原』(委嘱新作・初演)
神長貞行:『DIGITAL BOX 3』(2016委嘱作品・再演)
西川竜太率いる男声合唱団クール・ゼフィール、現在の団員数は実に6人。個人の技術が否が応でもあらわになる、歌手にとっては恐ろしく厳しいステージである。しかも現代作曲家の要求する技術が「普通の」合唱のそれとは次元が違うのはご存知の通りである。さて、どんな出会いが待っていたであろうか。
まず、ヒリヤード・アンサンブルのために書いたが、彼らが演奏しなかったという曰く付きの金井作品。ベケットの”something there”という詩のテクスト”Something there Where Out there Out where Outside”云々を、無声音、つぶやき声で、作者の言葉を借りるならば「歌うというよりは言葉を置いていく」序盤が非常に印象深い。冒頭で”something there”、つまり「何かそこに」とつぶやきかけられるが、その”something” とは何なのか、どこにあるのか。その後有声音やハミングやヴォカリーズ(もしくは単語の母音を延ばして歌う)で静かな、合唱、と呼ぶにはあまりにもいわゆる「歌う」という行為から遠い音楽が続く。静かだからこそ”something”という言葉の不気味さが漂う。最後も冒頭の”Something there”が無声音でつぶやかれて終わるのだが、その謎は謎のままで終わる。
西東三鬼の「枯蓮のうごく時きてみなうごく」という俳句をテクストとして、しかし作品の大部分はヴォカリーズで構成された星谷作品。ルネサンス期のポリフォニー音楽を凍らせたかのようなゆっくりとした静かな音楽、まさに枯蓮の動くその瞬間をスローモーションで捉えた音楽のように聴こえたが、よく聴くとその旋律線は1音ごとに音が切られて、つまりレガートで歌声をつなげることなく、切られた1音ごとに歌手が変わっていることに気づいた。音楽における「位置のパラメータ」の変動が大変なことになっているのだ。たしかに「みなうごく」という俳句の通りの運動が静けさの中に隠れた作品であった。
渋谷作品は四分音という特殊奏法を多用している、というより、四分音が必要不可欠な音楽的要素として使われている作品であった。彼女の用いる四分音にいわゆる「異化効果」は全く無く、「四分音のハーモニー」「四分音のポリフォニー」という一見するとありえないような音響が実に自然なものとして心地よく耳に届く。さらに、筆者の聴いた限りにおいて、「四分音のポリリズム」すら使われていたようである。佐峰存のテクストの言葉が一瞬判明する所もあるも、大部分の歌詞はこの四分音のハーモニー、ポリフォニー、ポリリズムの中で溶けあっていく。いつの間にか始まり、いつの間にか終わる、永遠を思わせるような音楽が四分音によって可能となったのは、作曲者と彼女の要求に応えたクール・ゼフィールのメンバーの卓越した技量ゆえであろう。
神永作品はエドガー・アラン・ポーの「大鴉」のテクストを数列の形に分解し、そこから素数に当たるものを抜粋して使用し、またそれを強弱二歩格という韻律に当てはめたという作品。作曲者の言葉によれば、言葉をデジタルな記号、作品をその記号を当てはめる箱と捉えたという方法論によってこの「仕掛け」を選んだとのことである。しかし、カラスの鳴声、しかも歌手それぞれで違った鳴声(どのように楽譜に指定されているのであろうか)を張り上げる、6人でカズーを合奏する、歌詞の音節ごとに歌手が変わる尋常でないポリフォニー(この点は先の星谷作品に似ていた)、ゆっくりとしたスキャットともいうべき言語的意味を持たない部分など、実にこの「仕掛け」が多彩なのである。最後はポーの作品中最も重要な”Nevermore!”の一語で終わるのだが、最初から最後まで全く飽きない、しごく新鮮な作品であった。
だが、終演後、西川は笑顔のままではあったが、「僕達はどうしたらよいのでしょうか、この6人(クール・ゼフィールのメンバー)もどうしたらよいのでしょうか」(この言葉は正確ではない)と聴衆に問いかけたのである。
確かに、今回の演奏会は4作品とも10分前後の長さで、256席の会場に聴衆は30、40人程度。現実問題として、彼らが新作を委嘱し、会場を借り、練習をする、その費用をまかなうのは難しいのであろう。しかし、世評にとらわれず、自分の耳を頼りに見出した新しい才能に真に新しい作品を書かせ、そしてそれを完璧な演奏で再現するという西川たちの妥協なき活動は、前衛の終わりという不毛な言説が大手を振って蔓延している現代だからこそ無二の価値、正当性がある。苦しい道ではあろうが、自らのレゾン・デートルは放棄しないでもらいたい。