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国際作曲委嘱シリーズNo.40〈ゲオルク・フリードリヒ・ハース〉【管弦楽】|藤原聡

サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2017
サントリーホール国際作曲委嘱シリーズNo.40(監修:細川俊夫)

テーマ作曲家〈ゲオルク・フリードリヒ・ハース〉【管弦楽】

2017年9月7日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡 (Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
東京交響楽団
指揮:イラン・ヴォルコフ
ヴァイオリン:ミランダ・クックソン

<曲目>
フリードリヒ・ツェルハ:『夜』(2013)[日本初演]
ゲオルク・フリードリヒ・ハース:ヴァイオリン協奏曲第2番(2017)[世界初演]
キャサリン・ボールチ:『リーフ・ファブリック』(2017)[世界初演]
ゲオルク・フリードリヒ・ハース:『夏の夜に於ける夢』 フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディへのオマージュ(2009)[日本初演]

 

最初に断っておくと、予備知識がまるでなく好奇心だけで聴いたコンサートである。ハースについて、勿論名前は知っていたがその作品を聴いたことはなく(あるいは聴いていたとしても忘れているか…)、しかしハースの師匠がツェルハだという事は知っており、ツェルハ作品のベルク的どん詰まり的濃密さがその弟子筋にどう受け継がれているのか、であるとかいわゆるポスト・モダン的な技法(主にこの場合は過去の作曲家の作品の引用あるいは換骨奪胎を指している)に対しての、または俊英イラン・ヴォルコフの指揮に対する興味、からサントリーホールへと赴いた次第。

1曲目は先述したハースの師匠であるツェルハの2013年作品『夜』。作曲者自身はこの作品についての文章の中で「夜中だと、時間は私のものという気がする。昼間だと、私は時間のものだという気がする」と書く。これはドイツ・ロマン派に伝統に連なる夜の特権化、と言っても良かろうが、敢えて単純化して書くならば、この曲は夜を表す沈滞した箇所と、楽曲途中で現れる「カーテン」(無数の流星=光)の対比で成り立っている。中間部などは想像通り(?)ベルク的な響きが聴かれるが、作品全体としてはさほど面白いとは思えなかった。過去に幾つか接したツェルハの作品の記憶をたぐり寄せてみれば、本作、齢87時の作品としては非常に密度の濃い作品だとは思うのだが、ある種の自己模倣という印象からは逃れられない。もちろんそこまでツェルハ作品を聴き込んだ訳でもないので見当違いな意見の可能性もあるけれども…。

次は当夜のコンサートのメインとも言いうる世界初演の『ヴァイオリン協奏曲第2番』だが、構造的には続けて演奏される9つの部分からなる、と解説にはあるものの、その区分は必ずしもはっきりしない。誤解を恐れずに言えばベルクの『ヴァイオリン協奏曲』のような聴後感をもたらすが、微分音によるクラスターや純正音程が用いられてる箇所もあれば、協和音が使われている部分もあったりと、全曲の響きの印象は極めて多様であり、非常に面白い。しかしそれらを技巧のための技巧として用いてはおらず、ごく自然に地に足の着いた形でさりげなく提示しているように聴こえるのである。
当夜のプログラムには非常に専門的な技術的記述もあるが、正直かなり難解であってその意味するところを完全には理解し難い。しかし、そのような筆者であっても全く退屈せずに聴き通してしまったのだから、これは恐らく2017年の「現代音楽」としては成功しているのではなかろうか。美学的な判断からはまた違った意見が出るだろうことは予想されるにせよ。

休憩を挟んだ3曲目はハースの弟子であり、ハース自身が高く評価しているという今年27歳という若手の女性作曲家キャサリン・ボールチの作品。恐らく日本にはほとんど紹介されていない作曲家であろう。この『リーフ・ファブリック』なる作品は、ヨーロッパアカマツが発する微細な超音波の音響の野外録音を聴いたことがきっかけだという。いわばこれを音楽的に変換したのが本作であり、この背景は外部情報として知ることがなければそうとは分からないが、その音楽は前半と後半で明確に違った趣を見せる。前半はいわば水分の循環における初期段階であるその吸収過程であり、後半はそれが循環していく様子を表している、というような捉え方が可能になるだろう。もちろん、そのような情報がなくとも音楽としてよく書けているので楽しめる作品だと聴いた。

最後には再びハース作品、『夏の夜に於ける夢』。言うまでもないがメンデルスゾーンの『夏の夜の夢』へのオマージュであり、当曲の印象を一言で言えば非常にセンスが良いオマージュである。冒頭、混沌として音楽が形を未だ生成しない状態の中から立ち現れる『夏の夜の夢』序曲の冒頭4音。これが様々に変容させられる中にいきなり登場する『フィンガルの洞窟』のこれまた冒頭。後者は全曲の至るところでループされまるでオブセッションの様相を呈して来るが、それでも作曲者自身が解説しているような「悪夢」のようにはあまり聴こえず、幻想的に異化された楽しいメンデルスゾーンという風情。1番分かり易い曲とも言えるが、さて、本当にそう言って良いのか反芻する必要はあろう。

イラン・ヴォルコフの指揮は初めて聴いたが、非常に明快な棒を振る指揮者であり、出て来る音もそれに比例してディテールが極めて明晰、このような特質は現代作品の構造を聴き手に理解させるにはうってつけだろうことは容易に理解できる。

毎年行われるこのサマーフェスティバル、チケットの価格は極めてリーズナブルであり、しかも毎年刺激的な企画内容とそこで提供される演奏の上質さも特筆すべきものだ。これはなんとしてでもずっと続けて頂きたいと思う(個人的かつ勝手な希望⇒ノーノの『プロメテオ』全曲! 指揮者はメッツマッハーで決まり)。