ザ・プロデューサー・シリーズ 片山杜秀がひらく「日本再発見」|齋藤俊夫
サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2017
ザ・プロデューサー・シリーズ 片山杜秀がひらく「日本再発見」
総合プロデューサー:片山杜秀
2017年9月3日、4日、6日、10日、サントリーホール大ホール、ブルーローズ
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)(9/3,6,10)
写真提供:サントリー芸術財団(9/4)
♪9月3日 大ホール
”戦前日本のモダニズム”―忘れられた作曲家、大澤壽人―
<演奏>
指揮:山田和樹
コントラバス:佐野央子(*)
ピアノ:福間洸太朗(**)
日本フィルハーモニー交響楽団
<曲目>
(全て大澤壽人(1906-53)作曲)
コントラバス協奏曲(1934、世界初演)(*)
ピアノ協奏曲第3番変イ長調『神風協奏曲』(1938)(**)
交響曲第1番(1934、世界初演)
今回のプロデューサーである片山杜秀の、日本洋楽史研究における最大級の仕事として、この大澤壽人の発見が挙げられる。1999年に片山と神戸新聞文化部の藤本賢市記者によって彼の大量の遺品が発見され、2003年にオーケストラ・ニッポニカがピアノ協奏曲第3番を再演し、2004年と2006年にNAXOSから発売された片山監修のCDが大きな反響を巻き起こした。以後この協奏曲を筆頭に、1953年に47歳の若さで没した「忘れられた作曲家、大澤壽人」の再評価の機運が高まっていった。今回は彼が28歳でボストン留学中に作曲したままこれまで一度も演奏されることのなかった2作品の世界初演が含まれるという歴史的なステージである。
その世界初演の『コントラバス協奏曲』は、印象主義的な朦朧としたオーケストラと表現主義的なコントラバスソロ、しかも第2・3・4楽章ではソロが微分音を使い、第2楽章ではその微分音によって謡曲(大澤は父が謡曲を嗜んだ)のような音楽が奏でられるという、1934年の世界最先端を行く作品であった。しかし、大澤の譜面のせいか、ソリストの技量ゆえかはわからなかったが、コントラバスの音が響かず、オーケストラもそれに合わせて音量を絞っていたため、音響のスケールが小さすぎるように聴こえた。
ピアノ協奏曲第3番『神風協奏曲』は神風特攻隊ではなく1937年に立川―ロンドン間を世界最速記録で飛んだ飛行機「神風号」にちなんだ協奏曲である。ラヴェル、フランス六人組、プロコフィエフ、そしてジャズなど作曲当時の現代音楽の要素をふんだんに取り入れた軽妙洒脱極まるこの作品、福間洸太朗のきらめくようなピアノソロが絶品。星空を翔けるがごとき音楽体験であった。
そしてもう一つの世界初演作『交響曲第1番』は、おそらく今回最大の「問題作」であっただろう。3管編成、全3楽章、約50分の大曲が1934年に日本人の手によって書かれていたということだけでも驚くが、しかしてその実演は予想以上のものであった。いや、あまりにも個性的すぎて筆者には音楽的把握ができなかったと言うべきか。ブルックナーのような長大なスケールを持ちながら、ドイツ音楽的構築性は感じられず(プログラムによるとソナタ形式や変奏曲であったようだが、聴いてみてそのことはわからなかった)、即興的な楽想が延々と続く。トゥッティのフォルテシモが何回も何回も現れるのもブルックナー似かもしれないが、かつて聴いたことのないその全体像は最後まで見極められなかった。ドイツでもフランスでも、そして日本でもこんな音楽は書かれたことがないだろう。こんな恐るべき作品が80年も埋もれていたとは!
(今回の執筆に当たり、生島美紀子『天才作曲家 大澤壽人』みすず書房、を参考にした)
♪9月4日 ブルーローズ
”戦後日本と雅楽”―みやびな武満、あらぶる黛―
<曲目・演奏>
武満徹『秋庭歌一具』(1979)
演奏:伶楽舎(客演:山口恭範、須崎時彦)
黛敏郎『昭和天平楽』(1970)
指揮:伊左治直
演奏:伶楽舎(客演:須崎時彦、合田真貴子、早川智子、朴根鐘(パク・クンジョン))
舞台監督:井清俊博
武満徹と黛敏郎という戦後日本音楽の巨匠2人を現代雅楽という土俵で対決させるというこの企画は、ブルーローズ(小ホール)という舞台と作品との音響的相性によって結果が決まったと言える。
武満『秋庭歌一具』の、一音一音が遠くへと響き空間に染み渡っていく様は、ブルーローズではホールの容積が小さすぎて残念ながら再現できなかった。また全29人という大編成がトゥッティで演奏すると音が過密になり、化粧の濃すぎる音楽になってしまい、やはり武満の意図から外れてしまう。この作品に必要な十分な音の「距離」が持てなかったのは不幸だったと言わざるをえない。
黛『昭和天平楽』にはそのような「距離」は必要ない。クラスター、微分音、ヘテロフォニー、アレアトリーの音楽などの現代的技法をふんだんに用いながら、圧倒的なスケールで迫ってくる。武満の余白の音楽とは全く正反対の、密度の濃い複雑なオーケストレイションは「雅楽」の固定概念を破るのに十分。そして序・破・急の3楽章構成の「急」ではエイトビートのリズムに乗って、会場はまさにライブハウスと化し、さらに全楽器がアレアトリーの音楽によるカオスな轟音を鳴らす!これを再現した伶楽舎と指揮者・伊左治の技量と作品理解は驚くべきものであった。黛の天才的作曲技法とエンターテイナーとしての性格が見事に融合した傑作の真の姿を知ることができ、実に忘れるべからざる演奏会になった。
♪9月6日 ブルーローズ
”戦後日本のアジア主義”―はやたつ芥川、まろかる松村―
<曲目・演奏>
芥川也寸志:『ラ・ダンス』(1948) ピアノ:泊真美子
松村禎三:『ギリシャによせる2つの子守歌』(1969) ピアノ:泊真美子
松村禎三:『弦楽四重奏とピアノのための音楽』(1962) ピアノ:泊真美子、ヴァイオリン:白井圭、須山暢大、ヴィオラ:安達真理、チェロ:山澤慧
松村禎三:『肖像』(2006) チェロ:堤剛、ピアノ:土田英介
(以下、演奏は指揮:伊藤翔、ヴァイオリン:白井圭、須山暢大、竹内愛、前田奈緒、町田匡、柳田茄那子、湯本亜美、ヴィオラ:安達真理、田原綾子、チェロ:門脇大樹、山澤慧、コントラバス:岡本潤)
芥川也寸志:『弦楽のための音楽 第1番』(1962)
松村禎三:『弦楽のためのプネウマ』(1987)
芥川也寸志:『弦楽のための三楽章(トリプティーク)』(1953)
芥川也寸志・松村禎三の室内楽曲を集めたこの回は、芥川の最初期の作品『ラ・ダンス』が師・伊福部昭『ピアノ組曲』に瓜二つだったこと、また芥川『弦楽のための音楽第1番』が特殊奏法を多用して旋律的なものが聴こえない、1962年という時代と武満徹の存在を強く感じさせる、芥川の作品中異質な存在であったということは発見であったが、いささか他の曲目はスタンダード過ぎた感は否めない。
しかし、演奏者達の個人技は卓越していた。16人の奏者全員が素晴らしかったのだが、前半3曲のピアノ、特に松村『ギリシャによせる2つの子守唄』の透徹した音楽を完璧に再現していた泊真美子、松村『肖像』で全く枯れる所のないたくましい音色を響かせた堤剛、弦楽の中でもひときわ張りのあるヴァイオリンを聴かせてくれた白井圭の名演は記しておかねばならないだろう。現代の古典とも言うべき定評のある作品群であったが、今回の演奏は格別のものであった。
♪9月10日 大ホール
”戦中日本のリアリズム”―アジア主義・日本主義・機械主義―
<演奏>
指揮:下野竜也
ピアノ:小山実稚恵(*)
東京フィルハーモニー交響楽団
<曲目>
尾高尚忠:交響的幻想曲『草原』(1943)
山田一雄:『おほむたから(大みたから)』(1944)
伊福部昭:ピアノと管弦楽のための協奏風交響曲(1941)(*)
諸井三郎:交響曲第3番(1944)
1941年から1944年の日本の管弦楽作品を集めたシリーズ最終回は、歴史を顧みるという点では意義深いものであったと言えるが、しかし作品自体は、伊福部昭を別にして、先の大澤壽人のモダニズムが受け入れられるような土壌は日本にはなかったという事実を再認させるものであった。
尾高尚忠『草原』はボロディンがドイツ的な堅固な構築性のある音楽に挑んだ、といった風情で、個性はほとんど感じられない。所々に日本的旋律や、最後に日本的和音(長短3度の音程ではなく、長2度と完全5度の音程を重ねた和音)が聴こえたりしたが、しかし大澤のコントラバス協奏曲第2楽章の謡曲的音楽の革新性と比べられるものではない。
山田一雄『おほむたから』は片山の解説によれば聲明と関係があるそうだが(聴いた限り筆者にはそうとわからなかった)、どう聴いてもマーラーの切り貼りであった。テーマにもモチーフにもマーラーのそれらがほぼそのまま用いられている。1944年の日本にかくもマーラーを知悉していた作曲家がいたというのは確かに驚きだが、山田自身がこの作品を戦後隠していたというのも、むべなるかなと思えた。
作曲家人生の最初から最後まで独立独歩を貫き通した伊福部昭の作品はさすがとしか言いようがない。既にCD録音で十分に知り尽くしていると思っていたが、実演は全くの別体験であった。第1楽章と第3楽章はかなりテンポの速く、パートごとに縦の線が外れることもままあったが、そんな粗を吹き飛ばすに足るダイナミックな演奏。また第2楽章は管楽器の北国的な寂寥感ただよう調べが殊の外美しい。民俗的かつ機械的という逆説的な伊福部音楽を見事に再現していた。
最後の諸井三郎『交響曲第3番』は音楽的形式とその構築に生涯こだわった諸井らしい作品であった。第1楽章の執拗なまでに一つの主題を反復・変奏し続ける重厚な音楽は日本のブルックナーとでも言うべきか。だがもっと感情的、あるいは情念的で、第2楽章ではそれが表立ち荒ぶって現れ、確かに戦時下の作品だと感じられた。第3楽章の永遠を思わせるようなアダージョは片山が言うとおり「戦争末期の日本の知識階級の絶望的な精神状況の反映」(プログラムより)かもしれない。だが、大澤や伊福部のような従来の音楽に果敢に挑戦する姿勢は見られない。よく書かれた完成度の高い作品ではあるが、日本現代音楽の萌芽はここにはなかったと筆者には思えた。
おそらく片山の意図通りだと思うが、シリーズ第1回と第4回の音楽の落差を目の当たりにしたことが最大の音楽史的発見だった。歴史を確認するだけでなく発見することができたのは望外の喜び。また第2回、第3回の名演奏に出会えたのも収穫であった。批判もあろうが、片山らしい、片山にしか企画できないシリーズだったと言えよう。