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Nekko Male Coir 第2回演奏会|丘山万里子

Nekko Male Coir
ネッコ・メール・クワイア第2回演奏会

2017年9月11日 渋谷区文化総合センター大和田4階さくらホール
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 河合祐明/写真提供:Nekko Male Choir

<演奏>
ネッコ・メール・クワイア
指揮:藤井宏樹

<曲目>
William Byrd : Mass For Three Voices/3声のミサ曲
~~~~~
合唱でたどる 「ニッポン・歌の花籠」(男声版) 初演
 企画・構成:戸ノ下達也
 脚本・演出:しままなぶ
 照明:林高士
 ピアノ:前田勝則

 以下、一部のみ演奏の曲もあり

 宮さん宮さん(作詞:品川弥二郎 作曲:大村益次郎)
 花(作詩:武島羽衣 作曲:瀧廉太郎 編曲:信長貴富)
 歩兵の本領(作詞:加藤明勝 作曲:栗林宇一)
 故郷(作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一 編曲:寺嶋陸也)
 コロッケの唄(作詞・作曲:益田太郎冠者)
 君恋し(作詞:時雨音羽 作曲:佐々紅華)
 男声合唱とピアノのための流行歌メドレー 「しあわせは空の上に」(編曲:寺嶋陸也)
  別れの一本杉〜上を向いて歩こう~高校三年生
 影を慕いて(作詩・作曲:古賀政男)
 露営の歌(作詞:藪内喜一郎 作曲:古関裕而)
 国境の街(作詞:大木惇夫 作曲:阿部武雄)
 隣組(作詞:岡本一平 作曲:飯田信夫)
 楽しい奉仕(作詞:吉川鷲美 作曲:伊藤翁介)
 ああ紅の血は燃ゆる(作詞:野村俊夫 作曲:明本京静)
 少国民決意の歌(作詩:大木惇夫 作曲:山田耕筰)
 軍隊小唄
 東京ラプソディ(作詞:門田ゆたか 作曲:古賀政男)
 海ゆかば(作歌:大伴氏言立 作曲:信時 潔)
 男声合唱「“若者たち”昭和歌謡に見る4つの群像 」より(編曲:信長貴富)
  戦争を知らない子供たち(作詞:北山 修 作曲:杉田二郎)
  拝啓大統領殿(作詞・作曲:VIAN, Boris Paul、Harold Bernard Berg 訳詞:高石ともや)
 かへり船(作詞:清水みのる 作曲:倉若晴生)
 リンゴの唄(作詞:サトウハチロー 作曲:万城目 正)
 青い山脈(作詞:西條八十 作曲:服部良一)
 異国の丘(作詞:増田幸治 作曲:吉田 正)
 男声合唱「“若者たち” 昭和歌謡に見る4つの群像 」より(編曲:信長貴富)
  ヨイトマケの唄(作詞・作曲:美輪明宏)
  若者たち(作詞:藤田 敏雄 作曲:佐藤 勝)
 男声合唱とピアノのための「Fragments(フラグメンツ)―特攻隊戦死者の手記による―」(作曲:信長貴富)

 

Nekko(根っこ)Male Choirは東京、山梨を拠点に活動する男声合唱団。音楽監督は藤井宏樹。

ジーンズに赤いパーカーの若者が客席からステージに上がる。手には携帯、耳にはイヤホン。と、合唱メンバーが出てきてみんなで客席を指差し、「あなたも、あなたも、あなたも!」。そうして若者に携帯をやめ、「歌おう!」と呼びかけて開幕。

『ニッポン・歌の花籠』は初演2010年(山梨大学合唱団)、混声版7回、女声版3回、形や構成を変え再演されているそうだが、私は今回の男声版が初めて。戦前(明治・昭和初頭)〜戦中〜戦後を象徴する「歌」をつなげ、そこから現代を問う企画。
日本最初の軍歌とされる<宮さん宮さん>から<花>、そして<歩兵の本領>で「突撃!」を叫び、すぐに<故郷>の優しいハーモニーへ、しみじみしたところで明るい「今日もコロッケ!」といったふうに、軍歌、戦争歌、唱歌、流行歌など、それぞれの歌詞や歌声の段差を巧みに織り交ぜて編まれてゆく日本の世相、時代。
壮年の男一人と赤パーカーの若者が舞台回し役、歌の合間にメンバー間のちょっとした台詞も挟まれ、照明ともども場面転換もスムースだ。
私は<故郷>で東日本大震災、福島原発事故を思い、戦時の戦争歌数曲の後の<海ゆかば>でたまらない気持ちになった。玉砕を伝えるラジオで冒頭に必ず流れたこの曲の背負うものはあまりに重い。辛くも美しい名曲である。一転、<戦争を知らない子供たち>は、ベトナム戦争ただなかの反戦歌、新宿を埋めたフォーク集会を思い出す。続く<拝啓大統領殿>では徴兵カードを受け取った青年の「僕は逃げる 戦いたくない」。その静かな訴え、澄明な歌声。「僕らはみんな 兄弟だ 血を流すなら あなたの血を 猫かぶりの 偉い方々」。隣席の女性が涙をぬぐっている。そういえば 9・11後、自衛隊派遣に躍起になっていた当時の政府、小泉首相は TVで「あなたの子供が戦争に行けと言われたらどうしますか」という質問に「そういう考え方は次元が低いですね」と答えた。そんなに戦争したきゃ自分が行け!と思ったな。イラク派遣は2003年から。
<ヨイトマケの唄>は男声合唱の圧倒的な迫力、「えんやこら」で総勢が綱を引く動作にズンとくる。<若者たち>はスローモションで走りつつの演唱が実に美しく素晴らしかった。
最後に、信長の< Fragments>。特攻隊戦死者の手記から構成されているが、「ニッポン男児としてこれ以上ない幸せ、名誉」「好きで死ぬんじゃない」「お母さん さようなら」といった言葉が並ぶ。男が歌う戦争歌に感じたある種の「高揚感」「悲壮感」は、配列の妙によりここまでバランスを得ていたが、ここに来て特攻隊、しかも冒頭から決然たる調子で「ニッポン男児として」云々に、かなりの違和を私は持った。「お母さん さようなら」に漂う悲哀より、冒頭の勇ましいセリフの方が克明に頭に刻まれ、それが耳にこだまする。音楽、言葉の強調をどこに置くかで、受け取りは全く違ってしまう。
なぜ、最後に特攻隊を置いたのか? 無残に散ってゆく若い命の絶唱?危機感を煽っての安保改正、改憲、戦争をやりたがっている連中が前のめりのこの時に(だからこそ?)、愚と悲の骨頂たる特攻をあえて正視させ「過ちは繰り返しません」へと繋げる?
そうさせるには、この作品は造りがいかにも中途半端だ。

歌が終わり、敬礼して去ってゆく男たち。赤パーカーの若者が一人残る。蝉の声。
「歌はどこに?」という若者の問いで、暗転。

最初の「歌おう!」と最後の「歌はどこに?」で、過去、現在、未来へと「歌」の行方を追う意図だろうが、私はこういう演出はいささか薄っぺらに思う。
携帯への批判(客席は受けた)から始まり、のど自慢スタイルで鐘を叩かせたり、回覧板を回したり、バタヤン(田端義男)を摸したりなどの細工も、時代背景を描いてそれなりではある。
客席は老若男女の合唱関係者とその仲間であれば、「歌おう!」「歌はどこに?」は自分たちの問題として、直に胸に響くものだったかもしれない。
だが、そのような収斂のさせ方は、ステージが何を伝え、どこに向かおうとしているのかを、かえってあやふやにしたと私には思える(昨年末、TVで聞いた長渕剛の「ウ・タ・ヨ・ノ・コ・レ」の叫びを私は思い出す。本誌カデンツァ|「欅坂46」、長渕剛、ミリタリールック)。

企画・構成の戸ノ下はプログラムで「戦争の時代」の音楽の再考により、「現在の我々の位置、そして未来を考え直す機会に」と述べている。私はそれに共感するし、曲の構成も見事。が、最後の特攻と終景の演出には疑義を呈したい。
男の歌う戦争歌、男の歌う反戦歌、男の歌う流行歌。それぞれに男声合唱でなければ出ないパワーと味と切実があった。優れて今日必要な企画であれば、一層の工夫を望みたい。

指揮の藤井はよくコーラスを引っ張り、まとめ上げ、拍手。
前半にアカペラのミサを置いたのも効いていた。

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