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関西フィルハーモニー管弦楽団 いずみホールシリーズ Vol. 43|小石かつら

関西フィルハーモニー管弦楽団 いずみホールシリーズ Vol. 43
「The Discovery 巨匠デュメイのベートーヴェン“2”」

2017年9月15日 いずみホール
Reviewed by 小石かつら( Katsura Koishi )
Photos by HIKAWA/写真提供:関西フィルハーモニー管弦楽団

<演奏>
指揮:リオ・クオクマン
ヴァイオリン:カーソン・リオン
管弦楽:関西フィルハーモニー管弦楽団

<曲目>
シューマン:歌劇「ゲノヴェーヴァ」序曲 作品81
シューマン:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 遺作(1853年)
ベートーヴェン:交響曲第2番 ニ長調 作品36

 

演奏会のプログラムはベートーヴェンとシューマン。なんら普通だ。しかし、ベートーヴェンが『交響曲第2番』、シューマンが序曲『ゲノヴェーヴァ』と『ヴァイオリン協奏曲』だと書いてあるのだから、目を疑う。(そしてニヤリとする。)ベートーヴェンの交響曲の内の、有名ではない作品だとしても、第4番でも第8番でもなく、第2番である。シューマンもしかりだ。これらの作品は、聴いたことが無いという人も多いだろう。
この「超有名な作曲家のあまり演奏されない作品によるプログラム」を仕組んだのは、まぎれもなく、関西フィルの音楽監督オーギュスタン・デュメイである。デュメイが関西フィルとこのような取り組みを始めて、もう3年以上になる。渋くて地味な取り組みなので、華々しい何かが起こるわけではないが、演奏会の客席にいると、私だけではなく周囲もおなじ様に「何が始まるのかそわそわして待っている」ということがよくわかる。プログラムを取り出して読んでいる人が、他の演奏会よりも明らかに多い。おそらく、単に意外な作品を取り上げるだけでなく、各作品の組み合わせや演奏順序も、聴衆が曲を聴くという時間の経過を軸に考え抜かれている点が、人気の秘密だろう。

ところがである。演奏会4日前の9月11日、ホームページ上で、デュメイはケガ(肋骨の負傷であると後に発表)のためキャンセルになり、代役としてリオ・クオクマンというマカオ出身でフィラデルフィア在住の指揮者が振ることになったと発表された。プログラムは変更なし。その時点で「9月20日の定期演奏会はデュメイが振る」という情報があったので、私たちはデュメイのケガの心配はせずに済み、代役の36歳の演奏に期待をめいっぱい膨らませて会場に向かうことができた。

シューマンの『ゲノヴェーヴァ』の序曲が始まるやいなや、まるで玉手箱を開けたかのように異次元のロマンティックな世界に没入した。代役で、このプログラムで、この演奏。36歳といえばそんなに若いわけではなく、香港演芸学院を卒業したあと、ジュリアード音楽院等で学び、フィラデルフィア管弦楽団で昨年まで副指揮者を務めていたほか、ロシア、フランス、オランダ、デンマーク、ブルガリア、中国、台湾、韓国等世界中で活躍している。関西には初登場、今月10月にはNHK交響楽団を指揮する。スマートな身体からあふれる、ふくよかな指揮。シューマンの気品を湛えた指揮からは、代役であることなど微塵も感じられない。「偶然なんですが、『ゲノヴェーヴァ』は私の十八番で」なんて言ってもらわないと合点がいかない。

そんなふうに思っていたら、『ヴァイオリン協奏曲』でもう一段上の世界へ、そっと連れて行かれた。ソリストのカーソン・リオンはカナダ出身の20歳の中国系。曲が始まってからヴァイオリンを弾き出すまでの時間、リオンは神経質そうな仕草をする。ところが弾き始めた瞬間に、彼の気迫にこちらが巻き込まれてしまう。ひと弓での求心力がとてつもない。シューマン晩年にあたるデュッセルドルフ時代に書かれた『ヴァイオリン協奏曲』は、同じフレーズが執拗に繰り返される。そのずっしりとした重さが、弓の隅々まで張り巡らされた集中力で、芳醇な香りに満たされた音になる。まさか、この素朴な青年から?と驚く。シューマンの、とりわけ後期の作品は、和音の積み方やオーケストレーションについてとやかく言われることがままある。けれども、シューマンの世界に入り込んでしまうと、その独特な世界観の魔力を知ることになる。当夜は、そういう演奏だった。だからこそ、アンコールのバッハのアンダンテは、別の世界としての現実に我々を引き戻す作用をも担っていた。

ベートーヴェンの『交響曲第2番』。リオ・クオクマンには、何日前に代役の依頼があったのか知らないが、暗譜で指揮をしていて驚愕した。しかも緻密な演奏。各楽器が重ねられ、カデンツが繰り返されて曲がすすむさまを、丁寧にたどる。そしてここで、デュメイのプログラムの謎が解けることになる。ずばり、シューマンの『ヴァイオリン協奏曲』とベートーヴェンの『交響曲第2番』は、雰囲気レヴェルで似ているのだ。音楽史がどうとか、様式がどうとか、ではなく、音符と休符によるリズムの組み合わせ方、フレーズの頂点となる音の運び方といった次元で醸し出される空気の密度が、同じなのだ。作曲年としては50年も離れているのに、両作品の親和性はとても高い。クオクマンがデュメイの意図を汲んだのか、それとも作品の力がそうさせるのか、などと思い巡らせる時間はとても幸福だった。

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