ファビオ・ビオンディ~華麗なるイタリア・バロックの世界~|大河内文恵
2017年9月21日 王子ホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
ファビオ・ビオンディ:バロック・ヴァイオリン
パオラ・ポンセ:チェンバロ
<曲目>
コレッリ:ヴァイオリン・ソナタ 第9番 イ長調Op. 5-9
ヴィヴァルディ:ヴァイオリン・ソナタ 変ロ長調 RV34(ドレスデン版)
ジェミニアーニ:ヴァイオリン・ソナタ ニ短調 Op. 4-8
~休憩~
タルティーニ:ヴァイオリン・ソナタ ト短調 Op. 1-10「捨てられたディド」
ヴェラチーニ:シャコンヌ ニ短調 Op. 2-12
ロカテッリ:ヴァイオリン・ソナタ ニ短調 Op. 6-12
(アンコール)
バッハ:ヴァイオリン・ソナタ 第6番 ト短調 BWV1019より IV アレグロ
パガニーニ:“ギターとヴァイオリンのための“ソナタより「ワルツのテンポで」
ヴィヴァルディ:“四季”より冬 第2楽章
使用楽器
ヴァイオリン:アンドレアス・ボレッル(パルマ・1735年) ガット弦
チェンバロ:フォン・ナーゲル Von Nagel(パリ・1993年) 2段鍵盤フレンチタイプ
エウローパ・ガランデでお馴染みのビオンディがソロでやってきた!とばかりあっという間に完売してしまった公演。日本公演のタイトルは上記の通りだが、海外では「啓蒙主義時代のヴァイオリン」と題されているという。なるほど、1653年生まれのコレッリから1695年生まれのロカテッリまで、作品でいえば、1700年ローマ出版のコレッリのソナタから1744年出版のヴェラチーニのソナタまでとほぼ18世紀前半のイタリア人作曲家の作品が集められている。
溢れんばかりの期待に目をキラキラさせた聴衆に圧倒されたか、前半のビオンディはエウローバ・ガランデの演奏から想像していたものとは少し違った。それでも、コレッリの第1楽章で既にビオンディ節とでもいおうか、リピートの際には華麗な装飾が盛り込まれていたし、第2楽章の転がるような節回しはやはりビオンディならではであった。続くヴィヴァルディのソナタは「ドレスデン版」とプログラムに記載されている。ドレスデンの図書館(ザクセン州立=大学図書館)に所蔵されているピゼンデルの筆写した楽譜からこのように呼んでいるのだろうが、別のバージョンがあるわけではないので、これを「版」とするのは誤解を招くかもしれない。これまた、ビオンディの絶妙な節回しが冴えわたるが、第2・第4楽章の音量の大きいところで無理にヴァイオリンを鳴らそうとして軋みが感じられるところがあったのがもったいなかった。第3楽章ではチェンバロがリュート・ストップで演奏され、2楽章と4楽章の繋ぎとしてうまく機能していた。
前半の最後はジェミニアーニ。高音でやや金属的な音がしたり、第2楽章で音程にわずかな不安定さがみられたが、第4楽章では低音域の音が深く豊穣な響きがするのと、何といってもヴァイオリンのソロ部分の魅力がたまらない。さすがはビオンディだなと思わせた。
通常、こういったプログラムでは、1曲を通して弾いたら、一度袖に引っ込んでまた出てきて次の曲を弾くといったパターンが多いのだが、彼らは一度出てきたら休憩までは拍手に応えるだけで袖には戻らず、そのまま次の曲に行く。前半でみせたビオンディらしさの片鱗はまさに片鱗でしかなかったのだと、後半に入った瞬間思い知らされた。タルティーニの『ディド』の最初の音の艶やかなことといったら。いきなり本気出してきたという感じでうっとりしていたら、後半のゼクエンツでノックアウトされた。ビオンディのCDでもここまですごくない!第3楽章では憂いを帯びた旋律でまた魅了してくる。まったく油断も隙もない。最後の音の切りかたまで、こちらの心の襞を知り尽くしているかのようだった。
つづくヴェラチーニのシャコンヌを聴きながら、そうかビオンディのヴァイオリンは器楽的ではなく声楽的な弾きかたなのだと気づいた。ハッとさせるようなソロ部分のあと、器楽的な箇所があり、また歌うようなソロが始まる。器楽的なヴァイオリンと声楽的なヴァイオリンがサンドウィッチになって、お互いがお互いを引き立てあっている。
最後のロカテッリはまるでオペラのレチタティーボやアリアを聴いているかのようだった。声楽的なヴァイオリンの本領発揮である。最後にチェンバロのポンセについてふれておこう。今回、チェンバロの向きが独特であった。舞台に対して平行に置くのではなく、斜め45度くらいに置かれている。そうすると、見ている楽譜越しに顔の向きを変えなくてもヴァイオリニストの姿が見える。普段アンサンブルで一緒に弾いている中で見い出した工夫なのだろう。それにしても、ビオンディがどれだけ自由自在に弾こうが少しもたじろぐことなく、まるで「いつものように」弾き続けるところは、伴奏者というより通奏低音奏者として弾いているのが見て取れた。この信頼感があるからこそ、ヴァイオリニストは思い通りに弾けるのだ。
アンコールの1曲目はバッハ。イタリア人ではないけれど、バッハの中ではイタリア的な曲だからと言い訳してから弾くところがイタリア人らしからぬ律義さである。こうやってイタリアものばかり聴いた後だと、イタリアっぽいと言いつつもやはりバッハはバッハだなと思う。折り目正しいのだ。それでもその折り目正しさが退屈さにつながらないのはやはりビオンディの技量だろう。アンコールの最後はヴィヴァルディの“四季“からお馴染みの曲である。さすがのクオリティ。最後をピツィカートで〆る粋さに脱帽。彼が愛される理由がわかった気がした。