カデンツァ|恐れず、恐れよ〜書く、とは|丘山万里子

恐れず、恐れよ〜書く、とは

text by 丘山万里子( Mariko Okayama)

本誌もこの10月で創刊3年目を迎えた。
この2年間、コンサート評421本、コラム合わせて650本近い原稿に目を通し、学ぶところも多い。
自分が書くにあたり、最近、いつも頭に浮かぶのは「恐れず、恐れよ」ということ。

若い頃は、恐れ知らずだった。
周囲からは「辛口」と言われ、書きたいことを書きたいように書いた。新聞の音楽評でも、署名原稿なのだから一字一句改変は不可、まして評価に口出しなど言語道断。
相手が新人でも加減せず、マネジメントの人に、こんな評読んで、この子が自殺したらどうするんですか、と言われ、そんなことで死ぬくらいなら、演奏家なんてやめたほうがいい、と答えた。こっちだって命がけで書いているんだ。大家だろうとスターだろうと関係ない。周囲の評判、ムードを斟酌する気はさらさらなかった。
傲岸不遜、そういう自分の、言葉への自負と評価の根拠がどこにあったのか。

一字一句ゆるがせにせず、美しく(美は色々。毒も含む)、言いたいことが伝わるように、などは物書きの基本。
周囲への斟酌無用、は、自分の評価の責任をすべて負う、逃げないのが批評家のはず。
命がけ、というのはその演奏と出会う、作品と出会う、その時、生起することに向き合うに、全身全霊を持って、自分が生きてきたこれまでの生の総量をかけて対峙する(若かろうと年配だろうと、生きた時間の長さは関係ない)、その覚悟で常にその場に居る、そのこと。

それは今も変わらないが、ただ、「恐れず」の裡にあるもの、書くことの「怖さ」を、自覚するようになった。
自分を賭ける覚悟、と言ったが、それは衆目の眼前に裸で立つことだ。
知識や理論武装、修辞でいくら目くらまししたところで、結局書き手のありのままが文章には出る。
何を見て、どこを聴いて、何を感じ、何を考え、こう言うのか。
それは、どんな風に生きてきたか、今、どう生きているかをさらけだすことに他ならない。
そうして、自分がいかに貧弱で極小でいびつに歪んでいるかも、常に、同時に自覚する。
それは、怖い。
外へ明らめることと、裡をえぐることの恐ろしさが、ひたひたと自分を侵食する。
書く、というのはその恐ろしさの狭間から言葉を一つ一つと切り出してくる作業だ。

裸で立つことを恐れず、自己の貧弱(私はあまりに世界を知らない)、いびつ(私はあまりに偏向している)を恐れよ。

ウィーン郊外 プッツ爺さんの2Fを間借り

個人的な話だが。
「私はあまりに世界を知らない」を知ったのは、ウィーン(財団のスカラシップ)、その5年後ミュンヘンでのそれぞれ1年間の生活。子連れだったのが大きい。
ウィーンは3歳と10歳、ミュンヘンは8歳と15歳だった。
彼らを通じ、あるいは連れ歩くことで見える世界は、私一人では決して見えないものだった。
ウィーンの春、一斉に花咲く通りを飾る花壇の植え込みをせっせとするのは、紛争と貧困の中東から流れてきた褐色の肌の人々だし(労働階層は歴然だった)、マックで私たちの前に座った男の子は「今日は僕の誕生日」と言って動かず、それが私たちのハンバーガーやポテトのおねだり、と気づいた時は食べかけを置いて席を立った(どうしたらよいかわからず、逃げたのだ)。
セルフの店で、客の食べ残しを待ち、さっと手を出し綺麗に平らげ、笑顔でカウンターに皿を片付ける少女を私たちは見て見ぬ振りした。
10歳で進路を振り分けられる教育システムは、職業の貴賎を明確にしていたし(子供の将来に悩む親との会話の端々にそれは出てきた)、揺るがぬ階級社会がそこにはあった。
東西冷戦の国境を越えて行ったチェコでは、どこも薄暗く何も置いていない店ばかりで、子らの食べられるものを探すのに苦労した。
ミュンヘンで息子が通った国際学級は難民の子の吹き溜まりで、彼らやその親(片親、もしくはいない子もいた)とのふれあいは、新聞記事を読むのとはまるで違った生々しい事柄で、その一人一人の境遇に世界の縮図を見るなんて冷静は、到底持ち得なかった。
遊びに招き、出すおやつを、彼らがどんな風に手に取り、食べたか。
1年の滞在を終え、別れの時、息子にプレゼントしてくれた飴玉やプラスチックの小さなおもちゃ(私たちから見ればガラクタ)が、彼らにとってどんなに大事な宝物であったか。
サッカー観戦に行くと言って、アパートの住人たち(中流家庭)に止められた。サッカーは TVで見るもの、競技場なんて女子供の行くところじゃない、野蛮で下品、危険と。気にせず行ったら、興奮した隣の男にビールをかけられたし、行き帰りの電車の凄まじい混雑・熱気・叫声に、子供ともども圧死しそうだった。
階級差・人種差別は日常の些細なことの中に、いくらでもあった。
もちろん、ウィーンでもミュンヘンでも、コンサート、オペラその他の音楽・文化三昧はしたし、車でオランダ、スイス、フランス、イタリア、トルコ、ギリシアなどなどそこらじゅう旅しまくった。郊外の牧歌的な生活も十分楽しんだ。
たかが2年。
だが、海外レポートを日本に送る自分と、その周囲にあるものの乖離は、「知らないということを知る」を私に知らしめた。
帰国後、私はしばらく批評の筆をとれなかった。

空漠たる日々の中で、チェリスト青木十良氏と出会い「豊かさと痛み」のお話を聞き(当時80歳)、氏の言葉を1冊の本にまとめ、ようやく、書いてゆこう、という気持ちになった。
知らない、を知るのは別に異国でなくとも、すぐ隣にある子供の貧困とか、福島の未来とか、どこにだって、誰にだって、窓はいくらでもある。
学識、情報蒐集も大事だが、自分を取り巻く世界の様々に、生身で関わるのも大事だろう。

本誌執筆陣の原稿から学ぶことは多い、と書いたが、読みながら、それぞれの批評の姿に目を凝らす。
批評が今日有用であるなら、それは何によってか。
あるべき批評の姿、などというものがあるわけではない。
それぞれがひとつひとつの文章の中にそれを探って行くのだし、私もそうする。
「恐れず、恐れよ」とつぶやきつつ。

ふと、以前出した本(『失楽園の音色』、今や赤面の鬱陶しい筆だがこれはこれ)に遠山一行氏が書いてくださった帯のことを思い出した。
ピンクの帯で、取り出してみると、こうあった。

「丘山万里子さんは正直な批評家である。思ったことを思ったように書く。これはとりあえず美点にちがいない。しかしこの本にはその批評家をこえた一人の人間、というより一人の女性の声が聴こえる。それは批評が成熟する場所だといってもいいだろう。」

年は重ねたけれど。

(2017/10/15)