第27回芥川作曲賞選考演奏会|齋藤俊夫
サントリー芸術財団 サマーフェスティバル2017
第27回芥川作曲賞選考演奏会
2017年9月2日 サントリーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)
<演奏>
指揮:杉山洋一
新日本フィルハーモニー交響楽団
ピアノ:永野英樹(*)
ピアノ:田中翔一朗(**)
<曲目>
(第25回芥川作曲賞受賞記念サントリー芸術財団委嘱作品)
坂東祐大:『花火―ピアノとオーケストラのための協奏曲』(2017、世界初演)(*)
(第27回芥川作曲賞候補作品)
茂木宏文:『不思議な言葉でお話しましょ!』(2015)
中村ありす:『ネイカース』(2015)
向井航:『極彩色―Prinsessegade,1440』(2016)(**)
(第27回芥川作曲賞選考および表彰)
選考委員:酒井健治、西村朗、山内雅弘
司会:長木誠司
まず、第25回芥川作曲賞受賞委嘱作品である坂東祐大『花火』。中国の蔡國強の火薬・花火を用いた現代芸術にインスパイアされた音楽である。
2階の6箇所にヴァイオリンとヴィオラのバンダ6人を置いて、ピアノを中心に、会場中でキラキラと輝くように、あるいは硬質に切りつけてくるように、あるいは激しく爆発するように、そしてプログラム・ノートに「次第に壊れていく」とある通り、様々な音が現れては砕け散って消えていくのは確かに蔡國強の火薬・花火芸術であると感じられた。また、永野英樹の、音の粒が立っていて、どんな超絶技巧でも全く団子状になることのないソロピアノは格別に素晴らしかった。
しかし、蔡國強の音楽化という発想抜きの、音楽そのものにはいささか不満・疑問が残った。各場面・各パートごとに現れて推移していく即興的な楽想を1つの管弦楽作品として構築することに成功していたとは思えない。部分部分を聴く分には十分面白いのだが、それが約30分続く音楽的必然性が希薄であった。また、大きな編成のオーケストラを活用していた、というより、大きな編成をなるべく使い切るために各楽器が慌ただしく鳴らされて、結果、無駄な音が多くなっていたようにも感じられた。
もっと切り詰めた、室内楽のような構成でギュッと短く絞った密度の濃い音楽があり得たのではないだろうか。
そして第27回芥川作曲賞候補作品である。
茂木宏文作品は、『不思議な言葉でお話しましょ!』という妙に軽い題名とは全く印象が異なる音楽であった。
ラチェットのロングトーンから弦楽器のハーモニクスのかすかな音で始まったかと思えば、すぐに極めて複雑な、おそらくヘテロフォニーや音群を用いた多声部書法により、うねる低音楽器に叫ぶ高音楽器が絡み合う。息もできないまま音の波に呑まれて流される中、フォルテシモのトゥッティで咆哮が轟くのにすくみ上がる。さらに多声部書法、音群書法の広がって溢れていく音楽の中に、金管楽器のユニゾンでのロングトーンや打楽器の強打が垂直に突き立てられ、そしてバスドラムの一撃が流れを塞ぎ止める。しかしまた音の津波が押し寄せる。
最後は全弦楽器がハーモニクスのトレモロの緊張した音を奏でているところに、のしかかるように管楽器が吠え、そこから全体の音響が収束していってマラカスのロングトーンで終わる。
語学的な意味が全くわからない大量の「不思議な言葉」、神や精霊や宇宙人のような人間とは異質な存在の言葉が音楽となって聴衆に語りかけてくるような、始まりから終わりまで全く緊張感の途切れることのない、恐るべき強迫的な作品であり、書法の見事さという点では間違いなく今回随一であっただろう。
中村ありす『ネイカース』、ネイカースとは真珠の炭酸カルシウム結晶の層を指す。
ヴィブラフォンが作品の中心的存在となり、全音階的音程(プログラム・ノートによれば長2度と増4度)が幾重にも層をなすその音響世界は実にファンタスティック、あるいはメルヘンチックで、先の異常な緊張感と迫力に満ちた茂木作品とは全く異なる音楽。
ヴィブラフォンの音がひときわ魅力的に響くが、またマリンバ、チェレスタ、ピッコロ、打楽器群(特にソロもあったボンゴ)の音も幻想的な世界を作りだしていた。ふわふわと浮かぶような楽想、リズミカルな楽想、それぞれが生き生きと響いてくる。音を構造的に作曲するのではなく、音の「流れ」を生みだし、音をそこで生物的に動かしていく。ややもすれば惰性に陥ってしまうこの仕事をやり遂げたのは見事である、と言いたかったところだが、惜しむらくは終盤、オーケストラが膨らんでいって大団円と思いきや、中々終わらず、というより作者が作品に終止線をつけるのに躊躇して失敗していたような感は否めなかった。
しかし武満、あるいは遡ってドビュッシーを思わせつつも新しく個性的なこの音楽は、現代音楽の歴史にのっとった上でそれを更新する可能性を十分に感じさせるものであった。
向井航『極彩色―Prinsessegade,1440』 、プログラム・ノートによればPrinsessegade,1440とはデンマークにあるヒッピー自治区「クリスチャニア」を示し、その世俗的な文化のタブーを超えた「自由」な「自然」の記憶を可聴化したものだという。
この作品も茂木、中村とは全く違った作風で、なるほど、とても「自由」な音楽であった。ピアノと金属打楽器(目視確認できなかったが、アンヴィルであろうか)の「キャーン!」という耳をつんざく強打の反復に始まり、ピアノとオーケストラが互いに負けじと荒ぶり、昂ぶり、全盛期の山下洋輔か?と思ったら本当にピアノとドラムスによるジャズが始まり、さらにガーシュウィン、バーンスタイン、いや、ロック(吉松隆?)やメタル的楽想が次々に現れては変容していく。しかしその書法は確かに「現代音楽」であり、人におもねるような所は全く無い。
だが、リズムに乗せたいのか、音楽を散乱させたいのか、どこかの収束点に持っていきたいのか、つまり音のエネルギーをどこへ向けているのかがわからなかった。あるいはそのわからなさこそが向井の聴かせたかった「自然」なのかもしれないが。この作品、作曲家もまた可能性に満ちていることはよくわかった。
選考では酒井健治が茂木、西村朗が中村、山内雅弘が茂木を1位に推し、西村が引いて茂木が1位に選ばれた。
しかし、選考結果に異議はないものの、今回の芥川作曲賞候補3作中2作が2016年度武満徹作曲賞受賞作(茂木が武満賞1位、中村が2位)だというのには暗澹たる気持ちにさせられた。以前も山本裕之が2002年度武満賞、同作で2003年芥川作曲賞を受賞したことはあるが(酒井健治も武満賞、芥川作曲賞を両方受賞しているが受賞年と作品が違う)、既に評価された作品に改めて賞を授けるというのは「わが国の新進作曲家の作品の中から、もっとも清新で、豊かな将来性を内包する作品」を顕彰するという賞の趣旨に沿ったものとは思えない。
さらにこれは、現代日本において、新進作曲家が管弦楽作品を書いて演奏されるという機会がいかに少ないかということも如実に表している。それは武満賞受賞作品ではない向井作品が、東京藝術大学の新卒業生紹介演奏会での初演だったということにも示されている。
この現状は何故かと尋ねるのは不毛かもしれないが、しかし、今も間違いなく新しい音楽家は生まれているのだ。彼ら・彼女らに挑戦の機会を与えねば「現代」音楽もその「未来」も何もあったものではない。楽壇が彼ら・彼女らにもっと向かい合ってくれることを願ってやまない。