沢井一恵 plays 杉山洋一electronics:有馬純寿|齋藤俊夫

沢井一恵 plays 杉山洋一electronics:有馬純寿

2017年7月18日 杉並公会堂小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 平井洋/写真提供:カノン工房

<演奏>
復元五絃琴、復元七絃琴、十七絃箏:沢井一恵
エレクトロニクス:有馬純寿(*)
(復元五絃琴、復元七絃琴は木戸敏郎によって復元されたものである。)

<曲目>
プレトーク:杉山洋一、木戸敏郎
(全て杉山洋一作曲)
復元五絃琴のための『手弱女(タワヤメ)』(2014)
十七絃箏のための『鵠(クグヒ)』(2015)
復元七絃琴のための『真澄鏡(マソカガミ)』(2015、世界初演)
復元七絃琴と録音された復元五絃琴のための『峠(タムケ)』(2014-2015、世界初演)(*)
十七絃箏とエレクトロニクスのための『盃(サカツキ)』(2017)(*)

 

古代の復元楽器による現代音楽演奏会とは非常に興味深いものであるが、少しうがった見方をすれば、古代という、現代とは異なる世界への好奇心、憧れ、さらには現代へのシニスムと表裏一体の、古代の無批判な美化につながりかねないものでもある。
筆者の経験では、かつてある歌手が、縄文土器に似せた壺に皮を張った鼓を叩きつつ伊福部昭を歌うという舞台に立ち会ったことがあるが、これなど、古代・異文化の短絡的な美化が滑稽な、あるいはキッチュな美観に至ってしまった例だと言えよう。そこには現代の音楽も古代の音楽もなかった。ただあるのは「現代でないからこれは良いものなのである」という意識だけである。
沢井一恵・杉山洋一の2人ならばそのようなことにはならないだろうと思いつつも、筆者は期待と同時に不安も抱えて足を運んだ。

しかし復元五絃琴のための『手弱女』はあまりにも衝撃的、いや、衝撃という激しいものではないが、琴のかすかな音とそれを包む静寂は筆者には全く未聴の体験だったのである。
絃の張力が極めて弱い五絃琴の音は軟らかくそして極めて弱く、5絃の音のうちかろうじて耳に届くのは高音の2絃の音のみ、残りの3絃はほとんど聴こえない。また、この楽器は開放弦で演奏されるため、作品は5つの音高のみで構成されていた。
この極度に弱音の極度に限定された音素材による音楽、それは我々が通常「音楽」と呼び習わしているものを根源まで遡った、音楽が始まるその瞬間に立ち会っているかのようなものであった。
5音の反復音型が静寂の中に小さな波紋を漂わせる中にあって、筆者は自分の心が空間の中に浸透していき、音そして沈黙と、あるいは自分の心の奥底にあるなにかと対話している感覚を覚えた。そして延々と続くかそけき音楽、そこに古代から現代まで流れ続けている「音の河」の存在を感じた。なんと豊かな音楽体験であったことか。

復元七絃琴のための『真澄鏡』、復元七絃琴と録音された復元五絃琴のための『峠』もまた始まりも終わりもない、永遠の「音の河」を感じさせるものであった。
七絃琴は五絃琴ほどではないがやはり音が小さく、『真澄鏡』ではまさに「枯れかじけて寒し」といった風情の極限まで切り詰められた音楽、音響世界を形成していた。『峠』では五絃琴の作る鏡のような水面の上に七絃琴がひとひら、またひとひらと落葉のように音を落としていく。
これらの復元楽器による3作品はどれも20分から30分ほどの長い曲だったのだが、時間がゆっくりと経つのを体感しつつも、全く倦怠感を覚えなかった。あっと言う間だったというのではない。ゆっくりと時間は経っていったのだが、しかしその時の流れと自分が一体となっていたのだ。
復元楽器による現代音楽は、確かに現代の新しい音楽であるが、しかし古代から続く音の河の流れに連なる音楽であった。そして、現代音楽でなければ、古代の音を想像・創造することもできなかったであろう。一体の音楽として古代と現代はその姿を現したのである。

復元楽器のための音楽と比べると、十七絃箏のための2曲はその印象において影が薄くなってしまったと言わざるを得ない。陰旋法によるしみじみとした段やアルペッジョの連続によるダイナミックな段、そして日本的な侘びた段などにより、卓越した沢井の演奏技巧と杉山の作曲技法がよくわかった『鵠』、アニミズム的な生命力に満ちた『盃』の沢井の十七絃箏と有馬のエレクトロニクス(ライヴ・エレクトロニクス含む)の協奏もこれまでにない音楽であったと思うが、しかし、それらは既存の現代音楽の範疇に入ってしまうものだった。悪くない、むしろ良い、だが、至高の体験の後では分が悪かった。

余談になるが、休憩時間に、沢井のはからいにより聴衆も舞台に登って復元楽器を間近で見、さらに触ることも許されたのも嬉しかった。五絃琴に触れた作曲家のK氏は、その絃の張力の緩さから「これは風によって音を出すものではないか」とコメントしていた。現代のように音にまみれた社会とは違った世界において、どのような音、そして音楽があったかと思いをはせた。

古代と現代を通底する「音の河」に触れられる、二度とないかもしれない貴重な演奏会に出会えたことを心から喜びたい。