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樫本大進&アレッシオ・バックス|大河内文恵

樫本大進&アレッシオ・バックス

2017年7月12日 東京オペラシティ コンサートホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)

<演奏>
樫本大進:ヴァイオリン
アレッシオ・バックス:ピアノ

<曲目>
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ ト長調 K. 301
ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第1番 ト長調 Op. 78 「雨の歌」

~休憩~

シマノフスキ:神話 ― 3つの詩 Op. 30
グリーグ:ヴァイオリン・ソナタ第3番 ハ短調 Op. 45

(アンコール)
グルック:メロディ

 

樫本&バックスが日本ツアーに用意した2つのプログラムのうち、2のほうを聴いた。会場には一目で樫本ファンとわかる美しく装った女性が大勢詰めかけていたのが印象的であった。

ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターをつとめ日本でも人気の高い樫本は、音色の美しさで知られる。この演奏会では、それだけではないどころか、それを上回る別の魅力があることに気づかされた。

1曲目のモーツァルトでは、当然ながら樫本の音色の美しさが遺憾なく発揮されるわけで、それは第2楽章中間部のメランコリックな部分において特に顕著であった。この時点では、メロディー部分と伴奏部分の使い分けが2人とも上手いなぁと思う程度であった。それまでは。

続くブラームスは、本来なら樫本の音色と哀愁が前面に出て聴衆の心を鷲掴みにするところであるが、聴き始めてしばらくして、こりゃ大変なことになったぞと気づいた。数小節ごとに主従が入れ替わるモーツァルトに対し、ブラームスでは秒単位でそれが交代しているにもかかわらず、どの瞬間にもこれ以上ないバランスで進んでいくのである。この驚異的なアンサンブル力は、あの美しい音色がどうでもよくなってしまうほど強いインパクトがあった。

アンサンブル力が優れているのは樫本だけではない。ブラームスの第2楽章ではヴァイオリンが単調な長い旋律を弾いているときには、ピアノが曲の推進力となっており、いわゆるブラームスらしさはピアノが全面的に担当している。ここでは、2人の信頼感の強さが垣間見られた。また、第3楽章は冒頭を聞いた瞬間に誰もが「ああ、あの曲!」とわかる有名な曲で、ブラームスらしい哀愁を湛えた曲であるが、さらっと弾いてしまうとつまらない曲になってしまう一方、思い入れが強すぎると聞いていられないほどの「臭さ」を放つ。彼らは、豊かな哀愁を響かせつつも「臭く」なる手前ギリギリで踏みとどまっている、奇跡のような音楽をつくりだした。

後半のシマノフスキは、1915年と20世紀に入ってからの作品で、聴き手によってはあまり馴染みのないものであったかもしれないが、樫本がこの曲を選んだ理由がよくわかる演奏であった。細かい音符を紡いでいくピアノと対照的に、ヴァイオリンは息の長い旋律が続くが、その長い音の歌いかたがいかにも樫本らしい。もう弾き始めた瞬間からノックアウトされてしまった。第2曲では弱音の妙技に唸らされたし、ヴァイオリンもピアノも最後の音の鳴らしかた消しかたが、これまた巧い。ハーモニクスや四分音が使われている第3曲では、これらがもはや特殊奏法としてではなく、音楽表現の一部として何の違和感もなく取り込まれているところに、樫本の特に運弓法の技量の高さを思い知らされた。

プログラム最後に演奏されたグリーグの冒頭は、ヴァイオリンにしては低い音から始まり、かなりドスを効かせた始まりかたをするのだが、それがまったく下品にならないところはさすがである。ピアノのみで始まる第2楽章では、樫本は立ち位置をずらし、客席からバックスがよく見えるように彼の背中側に回った。「ほらみんな、彼のピアノを聴いて!」といわんばかりに。アレグロ・アニマートと冒頭に書かれた第3楽章は、躍動感あふれる曲で、それが最大限発揮されているだけでなく、物語性が感じられた。やはり樫本は哀愁のメロディが得意なんだなと思いつつ。

その哀愁はアンコールへと続く。グルックの『メロディ』として知られるこの曲は、オペラ《オルフェオとエウリディーチェ》(パリ版)の第2幕第2場の精霊の踊りの場面のフルート独奏を、クライスラーがヴァイオリン用に編曲したもので、哀愁を帯びた旋律が切々と綴られる。曲が終わった瞬間、会場から「ほーっ」と大きな溜め息がもれた。会場じゅうの人々の持っていかれた魂がそれぞれの人に戻ってきた音のように私には聞こえた。