国際音楽祭NIPPON デトロイト交響楽団 演奏会|藤原聡

国際音楽祭NIPPON 
デトロイト交響楽団 演奏会 

2017年7月19日  東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)

<演奏>
指揮:レナード・スラットキン/デトロイト交響楽団
ヴァイオリン:諏訪内晶子

<曲目>
武満徹:『遠い呼び声の彼方へ!』
コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 op.35
チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 op.36
(アンコール)
管野よう子(吉松隆編):『花は咲く』
フェリックス・スラットキン:『悪魔の夢』 

 

次の世代に対して何か出来ることはないか? との想いで諏訪内晶子が2012年に創立し、芸術監督を務めている「国際音楽祭NIPPON」。この音楽祭は一箇所だけではなく複数の場所で開催される点がユニークだが、今回も東京、名古屋、久慈で全9公演。過去は横浜、名古屋、刈谷、仙台、郡山、名取、気仙沼で開催されている。リゾート地ではない街中で開催されることについては、「皆さんの日常の中に、クラシック音楽を聴くという楽しみを加えていただきたいという思いが込められています」(プログラムより)。第5回目の今年はレナード・スラットキン&デトロイト交響楽団が音楽祭に参加して公演を行ない、これを聴くことができた。ちなみに、デトロイト響の来日は何と19年ぶりだという。 

1曲目と2曲目は諏訪内がソリストとして登場して武満とコルンゴルト。前者では何よりもスラットキン&デトロイト響の演奏が特異である。強弱の繊細で段階的な変化や微細な色調のグラデーション、といったわれわれが武満的と考えている側面には頓着せず、大掴みでこう言ってよければ「デジタル的」、肉厚でふくよかな音を撒き散らす。武満にあっては明確な時間的指向性/分節的な「時間」の流れはなく、それは無時間的に気が付いたら移ろっていた、という感覚が濃厚だが、ここでは万事が割り切れていて明確だ。非日本人の演奏する武満作品には多かれ少なかれこういった要素を感じることが多いが、当夜の演奏はその極致か。非常に興味深く聴いたが、違和感が残るのは否定し難い。恐らく、演奏者は楽曲を根源的なところで把握していないまま演奏している。諏訪内のソロは無難な出来。というよりも、バックがこういう演奏だと諏訪内としても方向性の定まらない「無難」な演奏をする以外ない。 

しかし、2曲目は打って変わって全てが「ハマッた」感。単純化するのも危険だが、当曲の曲想はやはりハリウッド的な「経済効率重視」による「明快で効果的な」オーケストラ語法追及の産物であり、やはりアメリカのオーケストラとよくマッチする。ここでは武満の項で記載した彼らの特徴がことごとくプラスに生かされ、これ以上聴き映えするコルンゴルトのヴァイオリン協奏曲の実演にはそうはお目にかかれない、というほどの出来を示していた。諏訪内のヴァイオリンも芯が太く明快、名器「ドルフィン」の美音も冴え渡る。ここ最近の諏訪内の演奏には自信に満ちたスケール雄大な語り口が目立つようになっていると感じるが、それが曲によっては楽曲の情感を一様なものにしてしまいがちである。しかしこの日の演奏、まずは文句の付け所なし。 

休憩を挟んでチャイコフスキー、やはりオケがゴージャスで上手い。単純な話だが音量が大きく、金管の吹奏は正確無比で息が長く、ブレと揺れがない。パート内での不均一もなく(弦楽器での前方/後方プルトや管楽器でのトップとサブ奏者間…)、スラットキンの訓練の賜物には違いないが想像以上に優秀なオケだと感嘆(実演では初聴きのオケだ)。
しかし、問題はここからだがどの部分をとっても表情というか表現が一様で、沈滞というものがない。常に明るくまろやか。従って、忌憚のない意見を書けば相当に退屈した。チャイコフスキーの音楽はもっと躁鬱的に感情の振れ幅が大きいものだと思うのだがいかがだろうか。アメリカ的な属性としての「陽性」ということは一般論としてあるだろうが、それを言うなら日本のオケは「淡白」ということにもなり、国民性から来るキャラクターによって自ずと規定される部分があるのは否定し難い。スラットキンはもっと含蓄ある音楽をやれるはずなのだが(リヨン管と来日した際の「幻想交響曲」などは名演だった)、この辺りはオケに引っ張られたのか。
誤解のないように書くが、オケの性格、特徴というものは否応なくある。それ自体良い・悪いの話ではない。指揮者が音楽の性格をどう読んでオケにそれをどう具現化させるか、の話だ(そうでないならば、その作曲家の生まれた国と同じ演奏家の方が土壌が同じ分本質的な演奏が生まれるという論になってしまい、であれば日本人演奏家にブラームスは演奏出来ない? などという大昔の原理主義的な議論になってしまう)。 

何だか話が錯綜して来たが(苦笑)、聴きながらこういうことを否応なく考えさせられた点において、このチャイコフスキー演奏はそれ自体では個人的に受け入れにくい演奏だったにも関わらず非常に興味深く聴いたのだった(皮肉ではありません。演奏水準の高さには驚嘆しましたから。そういうこと、ありませんか? その演奏が受け入れ難いものだったとして、ではなぜ自分にとって「受け入れ難い」のか考えることが。そして、その考えることが楽しくなる、なんてことが)。 

アンコールではまさかの『花は咲く』でオケのしっとりした弦楽器群の歌い口に落涙し(吉松編曲が見事!)、スラットキンのアンコールでは半ば定番(?)の親父フェリックス作品から気楽なセミ・クラシック作品『悪魔の夢』。