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ハーゲン・クァルテット演奏会 | 藤原聡   

ハーゲン・クァルテット演奏会 

2017年7月2日 神奈川県立音楽堂
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 青柳聡/写真提供:神奈川県立音楽堂 

<演奏>
ルーカス・ハーゲン(第1vn)
ライナー・シュミット(第2vn)
ヴェロニカ・ハーゲン(vla)
クレメンス・ハーゲン(vc) 

<曲目>
ショスタコーヴィチ:弦楽四重奏曲 第3番 ヘ長調 作品73
ベートーヴェン:弦楽四重奏曲 第16番 ヘ長調 作品135
シューベルト:弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調 D810 『死と乙女』
(アンコール)
ハイドン:弦楽四重奏曲 第78番 変ロ長調 op76-4 『日の出』~第3楽章 

 

今回のハーゲン・クァルテット来日、関東圏では計5回のコンサートがもたれた。そのうちトッパンホールの3夜連続「ハーゲン・プロジェクト2017」ではシューベルトとショスタコーヴィチ作品に特化した形でコンセプチュアルな視点を提示していたが、武蔵野とこの神奈川県立音楽堂の2回はトッパンと重複する曲はありつつも上記2作曲家の作品以外のものも盛り込まれ、より一般的なプログラム構成である。 

まずはショスタコーヴィチだが、非常に清澄かつしなやかな表現で、楽曲の諧謔味をことさらに表出しようとする意志は全く感じられない(であるから、ショスタコーヴィチの音楽がどのようなものかを既にかなり知っている聴き手には、その「表現されないもの」に想像を及ばせるというメタな効果を発揮する)。ロシア(旧ソヴィエト)勢の団体による演奏では、その表情はいささかオーバーであったり、野趣を明確に感じさせるものが多いのだが、ハーゲンの演奏様態は、勿論ショスタコーヴィチの生きた時代から隔たった「西側」の感性によるものが大きいのは自明ながら、それよりも彼らの明確な自意識に由来すると思われる要素の方が大きい。これについては後述しよう。それにしても第2楽章で反復される4弦による弱音のスタッカートの気味悪さは様々な演奏の中でも随一と思われ、背筋が寒くなるほどだ。 

2曲目は、ハーゲンの面々にとってより「近い」音楽、ベートーヴェン。始まってすぐのルーカスによる1st vnの上行音形が聴こえるか聴こえないかのかすれた弱音で奏されたのにはいきないニヤリとさせられたが――この「かすれ」は恐らく意図せざるものだろうが、これもショスタコーヴィチの項で述べた「自意識」由来のものと思う。まとめて後述しよう(思わせぶり)。ここでのハーゲンの演奏は最晩年のベートーヴェン作曲による当曲との親和性に満ち、特にその第3楽章の静謐な表現が非常に感動的なものとなっていた。 

休憩を挟んでのシューベルトは、ベートーヴェンよりもさらにハーゲンに「近い」音楽だろう。ここでは、前半で抑制していた直裁なエネルギーの放出を見せ、殊に終楽章においては速めのテンポによる一糸乱れぬ追い込みには鬼気迫るものすら感じられた。対して第3楽章では、そのトリオ部分で聴かせる優美さは作曲家と同じオーストリアの血を感じさせる(こういう情緒は極めてオーストリア的で、ドイツ的ではない)。 

さて先述した「自意識」の話だが、そもそもハーゲン・クァルテットの演奏全てに共通するのが、対象にのめりこみ過ぎず一定の距離からクールなアプローチを施す点にあると思う。時には「敢えて違うことをしている」と思わせられるほどだ(現時点の最新録音であるモーツァルトの第14番。冒頭でいきなりのけぞります)。4人の奏者の音色も均質というよりはそれぞれの独自性があり、弦楽四重奏を演奏するために融和こそを第一目的とする、というよりはそれぞれの個性が不思議と結果的に合っているのかいないのか分からない(!)アンサンブルになっている、という具合。
以前何かの雑誌で彼らのインタビューを読んだのだが、アルバン・ベルクSQのモーツァルト演奏の素晴らしさには打ちのめされた、と告白しながらも「しかし、私たちはああいう演奏はしない」と明言していたのが非常に印象的かつ象徴的だ。ハーゲンのメンバー4人が生まれた1960年代は例えばアルバン・ベルクSQ創設メンバーで1940年生まれのギュンター・ピヒラーの約1世代後であり、団体が結成されたのが1981年。この時点で、彼らには既に「遅れて来た」という自覚が強烈にあったと推測される。
モーツァルトの故郷と同じザルツブルクで誕生した4人だが、彼らにとってクラシック音楽の伝統というものはもはや自明のものではなかったのではないか。であるから、幾らモーツァルトの音楽に魅せられようとも――いや、魅せられるほどに――それを今現在演奏するからには過去と同じことは出来ない。このような批評的な感性が彼らの演奏全てに共通する感触である。より若き日の演奏にはそれが直裁な形で表出され、近年の演奏ではそれらはより内包される形で表れる。
なお、中央ヨーロッパの団体がほとんど演奏しないショスタコーヴィチをレパートリーに入れたり、アンコールでクルタークなどを演奏してしまうのもいかにもハーゲンならではだ。これらもそういう文脈で理解できる。先述したベートーヴェン演奏での「かすれ」なども、表面を整えた「綺麗な」音楽をしようなどとはまるで考えておらず、リスクを取っても「こうしたい/こうあるべき表現」というものを優先させるというアグレッシヴさの象徴だ。 

当夜の演奏からやや離れた文章となったが、ハーゲン・クァルテットの演奏を聴く度に究極的にはこのことに思いが及ぶ。彼らの実力には驚嘆するが、決して好きとは言えない。聴いていて必ずしも心地良くないからだ。しかし、現代的、とは多くの場合心地良いものではない。だからアートなのだ。