フェスタサマーミューザKAWASAKI2017 東京交響楽団|藤原聡
フェスタサマーミューザKAWASAKI2017 オープニングコンサート
東京交響楽団
2017年7月22日 ミューザ川崎シンフォニーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
写真提供:公益財団法人川崎市文化財団
<演奏>
指揮:ジョナサン・ノット/東京交響楽団
<曲目>
シェーンベルク:浄められた夜 作品4(1943年改訂版)
ストラヴィンスキー:バレエ音楽『春の祭典』
毎年夏恒例、もはやお馴染みの行事となっているミューザ川崎のフェスタサマーミューザだが、昨年同様、そのオープニングコンサートはノット&東京交響楽団が受け持った。曲目はシェーンベルクとストラヴィンスキーという「真正面の大曲・名曲」。昨年のコンサートはヴィラ=ロボス、アイヴズ、ベートーヴェン作品から構成され、前二者はそれぞれ特定の場所の記憶に基づいた楽曲であり、ベートーヴェンでは場所の特定こそないもののヨーロッパの田舎の田園。それぞれのトポスそしてゲニウス・ロキ(土地の精霊=歴史的記憶の堆積)、さらには時代的なコントラストをコンセプチュアルに仕組んだプログラムだったが、今年はほぼ同年代を生き、方や当時の進歩史観的価値観に奉じて12音技法を推し進めた前衛シェーンベルク、方や様式の折衷が特徴的なストラヴィンスキー(この対比はアドルノ以降何かと持ち出されるが、まさに好対照だろう)。この日取り上げられたシェーンベルク作品は後年の無調(12音技法)作品ではなくいわばロマンティックな若書きであるが、ストラヴィンスキー作品もまた作曲者がバーバリズムに傾斜していた若き日の作品という共通性。そして、当日の冊子にノットが書いている通り、シェーンベルクは新しい命の誕生の音楽であり、ストラヴィンスキーは生贄の死の音楽という対照。連綿と続いた調性音楽の1つの終焉であるシェーンベルク作品、その終焉後の今日(こんにち)まで続くポスト・モダン的状況を予見させる時代の始まりを象徴するストラヴィンスキー(=終わり/始まり)。かように、今回も一見シンプルなプログラミングだがその内包する意味はなかなかに大きい。
前置きが長くなったが、1曲目のシェーンベルクからその分解能に優れた演奏は非常な聴きものだった。配置は丁度シンメトリック(コントラバスはうしろ1列)で人数は30人(だったと思う)。ノットの演奏傾向からして、分厚く鳴らしてマスの迫力を生かすという方向性の演奏にはならないと想像はされたが、その演奏は迫力はありながらも決して鈍重に響かず、それは各パートごとの音量とニュアンスの変化を微細に掬いとったノットの巧みな指揮の見事さによるものだろう。アンサンブル精度は必ずしも高くなかったのが残念だし(こういう解釈ならばさらに一段上の合奏が求められるだろう)、弦楽器の音色にはよりまろやかさとコクを求めたくなるシーンもあったが、総じて良い演奏。
しかし暗譜で指揮した後半のストラヴィンスキーはより名演奏。第1部前半は出入りする楽器間でのコンビネーションがいまいちチグハグであったり、オケのテンションもいささか低徊気味だったが「敵の部族の遊戯」辺りから徐々にオケが有機的にまとまって来る。
ノットの目指すところは、この曲の構造的側面に十分に留意しながらも楽曲の持つ革新性と異常な熱気をも併せて表現することにあると思われるが、前半は指揮者とオケの呼吸の問題だろう、分析的冷静さが勝っていたところ途中から全てが噛み合い出した、と見る。
ノット独自の読みによる音響バランスによるリズムの明確化や音価の変更などもあり、明快でありながらも一筋縄では行かないところも見せる(しかし例の4分の11拍子の超・最強打には驚かされた。こちらの想像をはるかに超えていた!)。ここでも東響の技術力が少し問題になって来るのだが、こういう曲ゆえノーミスはほぼありえないとしても、ホルンのミス、木管の音の欠けや弦楽器の「バラけ」などのミスがしばしば出る。
また、ノットの「構造の明晰性を要求しながらも独特の煽りを入れる」ハードな解釈を受け止めるにはオケの基礎体力にやや不安があり(第2部後半が否定的な意味での「爆演」に近づいたのも逆にそれを反映していると思われる)、全体としては良い演奏だったと認めるにやぶさかではないものの、随所に不安要素も顔を出していたのが気がかりだ。
しかし、「ハルサイ」で面白いところは、完璧な技術で余裕綽綽で演奏されてもそれはそれで曲の持つ切羽詰った空気が醸成されないところで(以前大阪で聴いたラトル&ベルリン・フィルの実演はまさにそれ)、そういう点ではこの日のノット&東響の演奏、何か祝祭的と言うか異様な雰囲気を醸し出していて秀逸であった。終演後の聴衆の盛り上がりも凄まじいもので、ソロ・カーテンコールで呼び出されたノットは本当に嬉しそうであり、それを見ているこちらも幸せな気分になったのだった。
それにしても、ノット&東響は毎回何らかの意味で瞠目すべき演奏を成し遂げる。