都響 第835回定期演奏会Bシリーズ|大河内文恵
2017年6月30日 東京オペラシティ コンサートホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
東京都交響楽団
大野和士:指揮
アルディッティ弦楽四重奏団
<曲目>
ブリテン:歌劇『ピーター・グライムズ』より「パッサカリア」op. 33b
細川俊夫:弦楽四重奏とオーケストラのためのフルス(河)
~私はあなたに流れ込む河になる~(日本初演)
~休憩~
スクリャービン:交響曲第3番 op. 43《神聖な詩》
ロマンチックを絵に描いたようなプログラムだなというのが開演前の印象だった。もちろん、細川の『フルス』は聴いたことがないので、あくまでもイメージだけなのだが。『ピーター・グライムズ』はブリテンのオペラの中でも特に人気があり、日本で上演されたこともある。どこをどうとっても救いのない筋立てなのだが、ブリテンの不思議と耳に残る独特の美しさを湛えた音楽と、観ているものを惹きつけるストーリー展開に感動を覚えた人も少なくないだろう。
このパッサカリアは第2幕の第1場と第2場とを繋ぐ間奏曲を独立させたもので、オペラ全体から眺めると、第1幕を含め、心理描写が続いて大きな事件のほとんど起きない第2幕第1場までから一転して、ピーターが少年に海に出る準備をさせ、「事件」に向かってぐっとストーリーが動き出す第2場といった、作劇上の転換点にあたる。
それを予感させるようなグロテスクさや気味悪さは最小限に留められ、ヴィオラ独奏の美しさが際立つ演奏だった。それは、管楽器群を抑えて使用していたこと、間奏曲直後のピーターの「行け!(go there)」という歌詞をもつes-c-desという音型が予示されるフレーズをあまり強調しない演奏であったことからもうかがえる。しかしだからこそ、見えないし聴こえないけれど、この後いったいどれだけすごいことになるのだろうという期待感を聴くものに与えた。
つづく細川の『フルス』は2014年にアルディッティ弦楽四重奏団とケルン・フィルハーモニーによって初演され、本日が日本初演となる。esの音から始まるこの曲は、徐々に声部が増えていったり、音量が大きくなったりと河の流れを連想させはするが、それは朗々とした旋律によって紡ぎだされるのではなく、1つの跳躍音程とそれに続く長いトレモロといった非常にシンプルな音響の連続から成っている。にもかかわらず、一瞬たりとも「気の流れ」が止まることはなく、聴いているものの集中力を最後まで途切れさせなかったのは見事であった。
管見ながら、細川の作品をいくつか聴いたこれまでの経験で「ここはあの曲と似ている」と感じたことが筆者は一度もない。たいていの作曲家の場合、その作曲家らしい響きとかフレーズ、和声語法のようなものがあり、それがその作曲家の個性を形作っているものだが、そういったものが細川には見当たらないのだ。その答えは細川自身の解説にあった。「世界の奥に流れている気の流れを聴きだし、それを陰陽の宇宙観によって紡ぎだす作業が作曲という行為である」。言葉でみると何やら現実感に欠けるが彼の音楽を聴くとそれが紛れもなく現実のものとして感じられるから不思議である。
休憩後はスクリャービンの『交響曲第3番』。50分におよぶ楽曲は4楽章に分かれているものの、楽章間は休みなく続けて演奏される。まさに50分一本勝負。独特の浮遊感をもつ神秘和音で有名なスクリャービンではあるが、この作品では管楽器による重厚な音型が繰り返し現れることで、現実に引き戻される。まるで曲全体がこの音型を核としたロンド形式であるかのように感じられた。
ロシアのオーケストラを思わせるトロンボーンとテューバの重厚さに対して、その響きの合間から抜け出してくる弦楽器パートの透明な響き、何よりゲネラル・パウゼ(全休止)のあとに立ち昇ってくる響きの何ともいえない儚げなニュアンスに、すっかり魂を持っていかれた。これまで演奏される機会はさほど多くなかったと思われるが、時折ラフマニノフを思わせるロシア的な哀愁をもったフレーズが出てくるなど、じつはかなり日本の聴衆に好まれそうな曲なのではないだろうか。
ブリテンでの嵐の前の予感、細川の底知れなさ、スクリャービンの溢れるロマンチシズムの中に楔のように撃ち込まれる現実感。けっしてロマンだけでは語ることのできないずっしりとした重みを心に残す演奏会であった。