パリ・東京雑感|タチアーナはなぜ理想の女性か? 勘違いしがちな『エフゲニー・オネーギン』|松浦茂長

タチアーナはなぜ理想の女性か? 勘違いしがちな『エフゲニー・オネーギン』       

text & photos by 松浦茂長( Shigenaga Matsuura )

オデッサのオペラ劇場

パリのオペラ座でチャイコフスキーの『エフゲニー・オネーギン』を見た。モスクワのボリショイ劇場で何度も見たオペラだ。ボリショイの切符を正式のルートで買うのはかなり難しかったが、どういうわけかある時感じの良い青年が外人居住区の我が家のベルを鳴らし、「ボリショイ・オペラの券を手に入れましょう」と言う。試してみたら良い席を持ってくるのでひいきにするうち、今度の『オネーギン』のソプラノはだめだ」とか、「来月の『金鶏』は絶対見逃してはいけません。デビューしたばかりだけれど素晴らしいソプラノです」とか、情熱的なコメント付きになった。
そもそも僕が音楽好きだと知って訪ねてきたのが怪しいし、どっちみちKGBの回し者に違いないけれど、あんなに音楽に夢中になれる男に悪人はいない、と信じることにして最後まで付き合ったものだ。親しい元KGB将校は、「ボリショイ劇場はKGBの監視が厳しいから気をつけなさい。とくにトイレはこっそり文書を手渡すのに使われるから、見張られている。なるべくトイレに行かないように」と忠告してくれた。あの愛すべき青年は、僕を頻繁にボリショイに行かせるところまでの任務を果たしたのだろう。ボリショイで僕を罠にかける計画があったのかもしれないが、当時のKGBは士気がゆるみ計画は中途で雲散霧消したものと見える。
ボリショイ劇場はモスクワのサンクチュアリだった。テレビから聞こえてくる荒々しいロシア語と、オペラのロシア語は同じ言語と思えない。『エフゲニー・オネーギン』の歌詞は、意味が分からなくてもジーンとするほど美しかった。現実のロシア人の動作は教養ある女性でもがさつで、エスプリもエレガンスもないのに、オネーギンを愛したタチアーナの一挙手一投足は目を見張るほどみずみずしい。フィクションの世界ではロシア人も上品で優美だったのだ。

タチアーナ・デリューシナさん

十数年かけて『源氏物語』をロシア語に翻訳したタチアーナ・デリューシナさんは、若いころプーシキンの『エフゲニー・オネーギン』を全文暗唱したそうだ。ヒロインのタチアーナはロシア人にとって理想の女性なのだという。
田舎の地主の娘タチアーナは、妹の許嫁が連れてきたオネーギンに一目ぼれして、その夜ラブレターを書く。ろくに会話もしていない男にいきなりラブレターを送り付けるなんて無茶だ。タチアーナは本を手放せない文学少女だから、フランスの戯曲や小説を読んで、恋の駆け引きを熟知していたに違いない。それなのに、あえて自分をひどく不利な立場に置く行為に出てしまう。拒否されるのを予感し、屈辱の不安におののきながら、夜を徹して手紙を書いたのは、奇跡を期待したのだろう。オネーギンが広い心の持ち主で、タチアーナを導き育て、やがて彼女を愛してくれる、そんな未来を夢見たのかもしれない。
ところが、オネーギンは憂鬱に取りつかれ、愛の純粋さや、ひたむきな情熱を信じることのできないシニカルな男だった。タチアーナの心の赤裸の美を見抜けるはずもなく、翌朝クールな説教を聞かせて辱める。間もなくオネーギンは、タチアーナの妹の許嫁と決闘して殺し、屋敷を去る。数年後タチアーナは年老いた公爵と結婚し、社交界の女王になり、そこにオネーギンが現れ、ようやく彼女の真価に目覚める。公爵邸を訪ね、求愛するオネーギン、「かつて私たちはあれほど幸福に近かった」と言い、今もオネーギンを愛していることを認めながら、拒否するタチアーナ。
この最後のシーンは難しい。セリフを読む限り、オネーギンへの思いと夫に対する倫理的義務感の相克のすえ、情念を犠牲にしたように見える。実際、ニューヨークのメトロポリタンオペラで見たカーセン演出は、タチアーナにしがみついて求愛するオネーギンに対し、タチアーナは必死で情念を押し殺そうと苦悶にのたうちまわる女を演じていた。でも、初対面の男に徹夜でラブレターを書く非常識を恐れなかったほどの女性が、いったん結婚すると模範的貞女になるのでは、興ざめだ。デリューシナさんが暗唱するほど憧れた<理想の女性>は、ここにはいない。

この解釈は肝心のところでずれているのだが、私たちはたいていそのずれに気づかない。たぶんそれは、恋についての私たちの思い込みのせいだろう。漫画、歌、映画…私たちのまわりは恋愛のテーマにあふれているので、恋がいわば自然現象のように見え、人はいつでもどこでも同じように恋するものと思い込みがちだ。ところが、恋愛こそ文化なのである。人は自分の育った文化が伝える恋の神話・物語に沿って、恋するのだ。
カーセンの『オネーギン』の根底にある恋の神話=原型は何だろう。フランス文学には『クレーブの奥方』、『谷間の百合』のように愛に燃えつつ貞節を守り、その葛藤の犠牲となって死んでゆくヒロインが多い。しかし、誤解してはいけない。作者は貞女を描くために書いたのではないし、読者はヒロインの徳の高さに感動するために読むのではない。貞潔は死ぬための口実に過ぎず、不倫という困難な恋の完成が死なのだ。西欧の恋の物語の原型は中世の『トリスタンとイゾルデ』であり、彼らの恋はこの世では成就しない。死によって永遠の愛に参入するのである。この厭世的な神秘主義こそ西欧の恋物語の隠れた真実であり、ドニ・ド・ルージュモンは古典的名著『愛について』の中でこう書いている。
「『トリスタン』においては、そのはじめに犯した過ちは、恋人たちの長い間の苦しい悔悛によって、痛ましくも償われる。さればこそ物語は《幸福に》-カタリ派的神秘主義の意味での幸福に―終る。すなわち物語は、恋人たちの二人の死によって終わるのだ。」
恋愛小説の古典、スタンダールの『赤と黒』の結末を思い出してみよう。主人公ジュリアン・ソレルがギロチンにかけられると、妻のマチルドは彼の首を大理石の台の上に置き、その額に口づけする。不倫をおかしたレナール夫人は、愛人の処刑から3日目に世を去る(悲しみによる自然死)。なんと荘厳にして≪幸福な≫終わり方ではないか。

モスクワ近郊の森

私たちの勘違いは『エフゲニー・オネーギン』の愛を厭世的神秘主義の神話圏に引き込んで読み解いてしまうところにある。ロシアの愛は死ではなく生命に向かっているのに…。ボリショイ劇場で日本人のソプラノ歌手がタチアーナを歌ったことがあるが、最後の幕でオネーギンに求愛されると、今にも心中しそうな気配が濃厚になった。日本人の恋の神話も死=心中に向かうのだ。
ボリショイ劇場の終幕のタチアーナは、オネーギンと並んで(向き合わずに)静かに座り、最後まで凛とした姿勢を崩さない。オネーギンとの間に求愛―拒否の争いがないから、タチアーナの内面の葛藤はかえって深く精神化される。デリューシナさんは「タチアーナはオネーギンよりはるかに高いところにいるのです」と説明してくれたが、この幕のタチアーナの魂は澄み切った静寂に達している。彼女のオネーギンへの愛は変わらない。しかし、彼女はオネーギンを超えて成長し、たとえ彼と一緒になっても幸福はない。あんなに手近にあった<幸せの時>は過ぎ去って戻らないのだ(愛の障碍は妻としてのモラルではなく、<時>という人生の真実)。
なぜタチアーナが<ロシア人にとって理想の女性>なのか、彼女の魅力はどこにあるのか?それは、自分を偽らない無垢の心だろう。初対面の男に恋文を書いたのも、彼の求愛を拒否したのも、自分の心にどこまでも忠実な行為だった。むき出しの魂、感動と行為の直接性がロシア人の心に訴えるのだろう。
パリ・オペラ座でタチアーナ(アンナ・ネトレプコ)が「かつて私たちはあれほど幸福に近かった」と歌った時、涙が噴き出し、カーテンコールまで止まらなかった。一体あれは何だったのだろう。パリ在住の作曲家、丹波明氏は、「チャイコフスキーは作曲家として一流だ。ベートーヴェンでさえ無駄な音があるのに、チャイコフスキーには無駄がない。あれほどの才能を持ちながら、文明のない国にいたからあの程度の曲しか作れなかった。気の毒だね。ブラームスは二流作曲家だけれど文明のある国に生まれたのが幸いした。」と、いかにも残念そうにおっしゃった。でも、チャイコフスキーは文明の鎧で武装していなかったからこそ、赤裸の魂を素手でつかみ取ることができたのではないだろうか。だからその感動は、精神より先に僕の涙腺に直接作用したのだろう。(2017年6月30日)

民族舞踊ベリョースカ