ドミトリー・シトコヴェツキー・トリオ~J・S・バッハの世界~|齋藤俊夫
ドミトリー・シトコヴェツキー・トリオ~J・S・バッハの世界~
2017年6月21日 ヤマハホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by Eriko Inoue/写真提供:ヤマハホール
<演奏>
ドミトリー・シトコヴェツキー・トリオ
ヴァイオリン:ドミトリー・シトコヴェツキー
ヴィオラ:アレクサンダー・ゼムツォフ
チェロ:ルイジ・ピオヴァノ
<曲目>
(全てJ・S・バッハ作曲、ドミトリー・シトコヴェツキー編曲)
『3声のインヴェンション(シンフォニア)』第1番から第15番
『ゴルトベルク変奏曲』
(アンコール)
『3声のインヴェンション(シンフォニア)』より第11番ト短調
同じ楽譜でも弾く人、弾く楽器によって全く違う表情を見せる、言わずと知れたJ・S・バッハの傑作『ゴルトベルク変奏曲』。その演奏・解釈の歴史の中でも、おそらく相当に異端であるシトコヴェツキー編曲による弦楽三重奏版が編曲者自身の演奏で聴けると知り、彼のCDを愛聴している筆者は大いに期待しておもむいた。
まず、前半の『3声のインヴェンション(シンフォニア)』であるが、これがただの前座にあらず。実に見事な音楽であった。バッハの他の鍵盤楽曲などに比べて単純な構造の本作品の、ポリフォニーの構造的巧みさ、美しさがはっきりと現れてきたのである。それは弦楽器3人が3声部を演奏仕分けたことによるのだろうが、オリジナルの鍵盤楽器による演奏よりはるかにポリフォニーが明瞭に聴こえ、「面白い」のである。また全15曲の曲ごとに、明朗、哀切、ユーモラス、悲愴、愉快、寂寥、と音楽的表情が全部異なっていて、約30分間、あっという間だが豊かな音楽体験をさせてもらった。編曲・演奏のシトコヴェツキーの功だと言えよう。この編曲版はCD化されていないので是非CD録音してもらいたいものである。
そしてメインの『ゴルトベルク変奏曲』を聴きつつ感じたことは、シトコヴェツキーのヴァイオリンは、少なくとも今回の演奏会では、技術的には世界レベルには及ばないということである。ピッチがズレていたり、音を間違えたりした箇所が少なからず聴き取れてしまったのである。
だが、彼の演奏を音楽的に捉えるならば、真に豊かで、バッハ解釈として正統なものであり、そして唯一無二のものだと筆者は評価した。その『ゴルトベルク変奏曲』の音楽世界のなんと透明なことか!全体的にかなり高速だったのだが、それでも違和感を感じさせない、自然で、ロマン派的な厚塗りの感情表出とは全く違うが、しかし人間的な感情を喚起する弦楽三重奏。特に第22変奏、第24変奏のポリフォニーのアンサンブルの見事さは形容し難いほどであった。
そのような澄みきったゴルトベルクを可能にしたシトコヴェツキーの音楽的魔法の種がどこにあるのか、筆者にははっきりとはわからなかったが、ビブラートをあるときは使わず、あるときは弱めに、あるときは強めにと弾き分けることによって、弦楽器によって鍵盤楽器の演奏に近い表現とそうでない表現をしていたことは特記しておきたい。
あるいは「歌う」と一般的に言われる表現方法が、ロマン派的な「歌い方」ではなく、バッハ的なまっすぐでたわみや緩みのない「歌い方」となっていたことも記しておきたい。
今回の演奏はバッハの原曲の音楽的意図を損なわず、しかし編曲者ならではの音楽となっていた。鍵盤楽器のために書かれた作品を弦楽三重奏に編曲するというのは異端と思われるかもしれない。しかし、ただ異端と退けるには余りにもそれは美しすぎる。バッハの、そして音楽の可能性の広さを改めて知らしめられた演奏会であった。