飯野明日香 Parfum du Futur vol.17:Japan Now |齋藤俊夫

飯野明日香 Parfum du Futur vol.17:Japan Now

2017年6月25日 東京文化会館小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:カメラータ・トウキョウ

<演奏>
ピアノ:飯野明日香

<曲目>
西村朗:『マツヤ(魚)~『ヴィシュヌの化身』より』(2002)
細川俊夫:『エチュードIV~あやとり、2つの手による魔法(呪術)、3つの線~』(2013)
藤倉大:『2つの小品』I.『Sek Sek』、II.『あやとり』(2011)
田中カレン:『テクノ・エチュード』(2000)
高橋裕:『宙(そら)の風』(2017、委嘱作品、世界初演)
金子仁美:『中世から』(2010)
湯浅譲二:『内触覚的宇宙II・トランスフィギュレーション』(1986)
一柳慧(ピアノ独奏版編曲:飯野明日香):『ジャズ・ファンタジー~ピアノ協奏曲第4番『JAZZ』より』(2017)(世界初演)

 

気鋭のピアニスト・飯野明日香が2005年に始めたリサイタルシリーズ「Parfum du Futur」の第17回演奏会は題して「Japan Now」、現代日本音楽だけ、それも2000年以降の作品を多く取り上げたプログラムと知り、俄然期待は高まった。

まずは西村朗。トレモロによる線の細い楽想が印象的な作品であり、中盤に入って跳躍が多く、最低音域から最高音域まで使われる動的な部分でも荒々しくならない。言わば女性的な演奏解釈であるが、しかしそれが西村のアジア主義と齟齬をきたすことがない。なるほど、こういう西村もあるのかと思わされた。

細川俊夫作品、これがまるで先の西村朗の諸作品のようなアジア的なダイナミズムに満ちた曲で驚かされた。中~高音域で短い不思議な感触の音節を連ね、低~中音域へ、さらには最低~低音域へと移りつつ次第に昂ぶっていき、細川の従来の日本的な沈黙の音楽とは全く異質な、まさに咆哮とも言うべき音楽が奏でられる。終盤、高音域で速い走狗が連なったと思ったら最低音域を強打するところなど、細川俊夫のこれまでのイメージを刷新するに十分。細川と飯野の可能性を知らしめられた。

藤倉大作品はいささか言に窮する。『2つの小品』とあるように確かに小品なのだが、しかし中身の詰まった小品ではなく、始まったと思ったら心に響くものなくあっと言う間に終わってしまう小品で、何を聴いたのかわからなかった。作曲家は「この2つの小品を書く中で柔軟性に富んだ新しい作曲形式を見出」したらしいが(プログラムより引用)、どこにそれがあるのか不可解であった。

「曲全体のアイデアは、テクノ、リズム、スピードという3つのキーワードに集約される」(プログラムより)とある田中カレン作品、テクノというよりは、これはプログレッシブ・ロックではないかといささか疑問を抱いてしまったが、ポスト・ミニマル的な小さな音型の高速反復が実に「ロック」(もしくは作曲者の言うように「テクノ」)だと感じ、非常に面白く聴いた。特に最初から最後まで用いられる最低音域での高速反復が「カッコイイ」作品であった。

高橋裕作品、高音域で余韻を響かせる静かな楽想に始まり、次第に膨張して濁りを含んでいく。それが余韻の中に消え去り、点描的な強打と、どこか不吉で陰鬱な小さな音型の楽想と、高音での同音連打を主とした激しい楽想の3つが三つ巴を繰り広げる複雑な音楽へと移る。そしてやはりそれも消え去り、高音域での同音連打で曲が締められる。これらの音の消え去りが作曲者の言う「音の残心を聴く間」(プログラムより)であり、宇宙の風の音楽的表現なのだろうが、しかしその表現が成功していたかというといささか疑問である。「間を聴くこと」ができなかったと正直に言うしかない。

金子仁美作品はカリヨン(教会の鐘)をピアノで表現したということだが、なるほど、従来の協和音ではないが、しかし不協和でもない、今まで聴いたことのない和音で最高音から最低音まで下る序奏で納得がいった。低―高―低―高と交互にアルペッジョが奏でられたり、走句から音が抜け落ちていって複雑な変拍子になったりし、最後には低音の同音反復の強打から高音へと音階が走っていき、低音の余韻が消えるまでが作品。はっきりとした着想によって全体を構成した快作であった。

湯浅譲二作品、極限まで切り詰められた硬質な音が連なる音楽であるが、しかし飯野の演奏はそれぞれの音と音との音楽的連関性をつかみきれていない。一音一音余韻を聴かせるのだが、それが冗長に聴こえ、静寂と音の緊張関係を構築できずに終わった。名曲(しかし難曲)を名演で聴くことができなかったのは残念であった。

最後の一柳慧作品。沈鬱な出だしに始まり、暗く重い楽想とジャズ調の激しいリズミックな楽想が入り乱れる。高音で静かに終わると思ったらいきなりフォルテシモでガーシュウィンのような音楽が吹き荒れて終曲。最後のガーシュウィン的な所の勢いは良かったのだが、全体的に飯野がジャズのリズムに乗る所と、クラシック的な所のリズムの弾き分けができていなかった。作品全体を貫くコンセプトであるリズムがおろそかになってはなるまい。

現代音楽の委嘱と現代の古典的音楽に果敢に挑む飯野の開拓精神は大いにこれを買いたい。是非これからも(日本)現代音楽シーンを活性化していってもらいたい。