アルディッティ弦楽四重奏団×白井剛|能登原由美

アルディッティ弦楽四重奏団×白井剛

2017年6月23日 ロームシアター京都 サウスホール
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by井上嘉和/写真提供:ロームシアター京都

<出演者>
アルディッティ弦楽四重奏団|音楽
白井剛|ダンス

<曲目>
第1部|アルディッティ弦楽四重奏団
 クルターク:ミハーイ・アンドラーシュへのオマージュ〜弦楽四重奏のための12のミクロリュード
 細川俊夫:沈黙の花
 リゲティ:弦楽四重奏曲第2番
第2部|ダンスとの共演
 クセナキス:ST4(1962)
       Ikhoor for trio(1978)
       Tetras(1983)

 

巧みに構成された舞台であった。前半は音楽のみ、後半は音楽とダンスの共演。ともに3曲ずつのプログラム。前半はいずれもこのアンサンブルに馴染みの深い3人の作曲家を取り上げる。後半は1人の作曲家から3曲。どの曲もそれぞれ特徴を異にしているが、その差異を通してより鮮明に浮かび上がったのは、奏者とダンサー、言い換えれば演じる身体と身体が共振する空間であった。

クルタークの《ミハーイ・アンドラーシュへのオマージュ》。音の数も量も極端に切り詰めた12の極小の作品からなる。その多くは息を凝らして耳を済まさないと細部まで聞き取れない。舞台と客席が近いこのホールにあっては、音楽よりも奏者の息がむしろはっきりと聞こえてくるほどの小さな音の群だ。今や音楽はいつどこででも耳に入れられる時代。しかも手元のつまみを調整すればヘッドフォンがクリアな音を隅々まで伝えてくれるという、いわば「万聴」の世である。けれどもこの演奏のように、曲が終わるごとに(恐らく無意識に)奏者たちが互いに目を合わせ頷く「音楽の余韻」までは伝えてくれまい。

その「音楽の余韻」は、細川の《沈黙の花》では、音と音の間(ま)、すなわち「沈黙」としてあらかじめ意識化されている。本作はまさにこのアンサンブルのために書かれ、捧げられたもの。だが、その「沈黙」を西洋音楽のスタイルで意味付けることの難しさを改めて感じた。つまり、細川は本作で「沈黙」を語る際、日本の伝統芸術、とりわけ能の沈黙を引き合いに出す。けれどもこの日の演奏では、能役者ならぬ奏者を取り巻くエネルギーは、実際に鳴り響く音の方に注がれていたように感じられた。

リゲティの《弦楽四重奏曲第2番》は彼らにとって、すでに自家薬籠中のものとさえ言えるかもしれない。アンサンブルの創設者であるとともに音楽の牽引者でもあるアーヴィン・アルディッティを中心に、小気味良い演奏を聞くことができた。

後半に入ると、舞台上に3つの異なる場が形成されているのがライトで照らし出された。1つ目は、舞台中央からわずかに下手寄り、4人のアンサンブルの場(ただし奏者が3人となる《Ikhoor for trio》では椅子も譜面台も一つずつ撤去された)。2つ目は、舞台上手側奥の壁際に、乱雑に固めて置かれた10〜20本程度の譜面台の一群。3つ目は、舞台下手側の壁際に沿って、等間隔に置かれた5本の譜面台たち。さらに、実際の譜面かどうかは定かでないが各譜面台には白い紙も見える。これから何かが演じられることを匂わせると同時に、3つの異質な場がダンスと音楽によってどのように形成されていくのかを期待させる。あるいは舞台が一つの世界を表しているのだろうか。いや、そもそもこうした期待を引き出すことが演出の一部なのかもしれない。それにしても、全体として3という数字にこだわりがあったと捉えるのは考えすぎだろうか。

舞台の構成と演出、美術、衣装は全て白井自身が担当。クセナキスによる3つの曲が、それぞれ妙味に富んだ時空間となって現れた。まずは《ST4(1962)》。冒頭から飛び交うグリサンドが白井の体を通して視覚的に現前化される。ほぼ一箇所に止まり、上半身を使って曲線的な動きを強調する白井の体。音と体、2つの動きはいずれも無機的、物質的な感覚だけを伝えてくる。続く《Ikhoor for trio(1978)》は、3曲の中でも最も物語性を感じる内容となった。冒頭部の力強いリズムの刻みに合わせ、衝動的な激しい動き。長い髪を下ろして上半身裸となったためかもしれないが、原始の世界、動物本能的な世界の感じられるものであった。曲の締めくくりで平然と歩いて舞台を去ったのは、理性の目覚めを表すということだろうか。最後のTetras(1983)は、3曲の中でも最も音楽と体の動きがシンクロするものに。突発的な音に対する鋭い反射や、細かいパッセージでの痙攣するような動き、奏者たちの周囲を何度も回るあたりは、一見病的な世界にも思えた。

さて、背後に置かれた譜面台は結局ほとんど活用されることはなかった。けれども、観客をあらかじめその世界に引き込むには充分であっただろう。奏者が織りなす様々な音の形状とダンサーの体の動き、その共振の場を存分に味わうひとときとなった。