五線紙のパンセ|その2)余は如何にしてブルヲタとなりし乎|木下正道

その2)余は如何にしてブルヲタとなりし乎

木下正道(KINOSHITA Masamichi)

オリヴィエ・メシアンが「私の臨終においてまず第一に後悔しないことは、私がカトリックの信仰を持つことである」と、何かのLPの解説にあったのを過去の記憶に持っている。ならば私は言おう「私の臨終においてまず第一に後悔しないことは、私がブルヲタであること」だと。
ブルヲタ、すなわちアントン・ブルックナーの諸作品を、心の底から骨の随まで愛し、愛して止まない者たち、そしてその愛によって起こされる行動全般の結果を甘受する者たちのことである。

私が初めてブルックナーの作品に接したのは、多分中学生の頃、黛敏郎司会による「題名のない音楽会」にて、(「題名」は今では考えられないくらい「硬派」な「教養番組」であったのだ !! ) 交響曲 (『8番』か?) のアダージョが演奏された時である (それも当時は「アダージョ」だと思っただけで、実際はフィナーレだったかもしれない。まあ、そういうものである)。正直、中学生の私には、あまり変化なく淡々と続いていく音楽だなと感じる程度だった。ちなみに当時健在だった祖母もその番組を一緒に観ていて、というかまさに真剣に画面を凝視し聴き入っていたのだが、終わるや否や放った一言「何が何だか、さっぱり分からないねえ〜」は、私が「すべての価値を転換」させられるほどショックを受けた三大台詞 (あとの二つはどこかで語ったことがあるのでここには書かない) のうちの一つである。

その後、当時少しの間だけ習っていたピアノの先生にクラシックのLPを大量に借りることがあり、その中にブルックナーの『4番』と『9番』も混じっていた。指揮はワルターである。この音盤はカセットにダビングして愛聴していたのだが、普通に他の作曲家も色々聴いていたので「ブルヲタ」という程ではなかった。勿論当時は「ヲタ」という言葉も一般的では無かったし、強いていえば私はブラバンとヘヴィメタの他にはファミコンに熱中していたので「ヲタ属性」としてはそっちの方が強かったかもしれない。LPは一枚3000円くらいと高価だったし、クラシックのLPを買うよりはメタルの新譜の方が遥かに重要だったのだ。後にクラシック、現代音楽に興味が出て、1500円くらいの「廉価盤」で出ていた武満徹や三善晃、クセナキスなどのLPを買ってきたのだが、それらの「貴重な」LPを、せっせと懸命に、繰り返し何度も何度も大切に聴いたものであった。

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大学に入ったのち、何となくブルックナーという名も知っていたので気になって (高校の時読んでいた別宮貞雄氏の本に記述があったのだ)、中古屋に行き、一番安かったインバルの『8番』のCDを買ってきた。詳しい方はここで苦笑されるかもしれない。なんと私は「第1稿」(最近徐々に増えてきたとはいえ、あまり演奏されない)で『8番』を覚えてしまったので、その後1890年版 (こちらが現在「普通に」演奏されている版である)になかなか馴染めずにいた (さすがに今は慣れた)。インバルのCDはその後6番と7番も買ってきたが、『6番』が面白いと思いいくつか集めた。ただその時もそこまでで、私の興味はまた他の作曲家やらに移ってしまった。

そういう私がはっきりと自らを「ブルヲタ」であると自覚したのはもっとずっと後で、多分2008年くらいだと思う。それも明確に「この時から」というのは無い。今は亡き宇野功芳氏が「クナッパーツブッシュの『8番』を聴いているときに目覚めた」ということを書かれていたが、私の場合はいつの間にかブルックナーが「そこに在った」訳である。とは言いつつも、ひょっとすると朝比奈隆の『9番』のCDを偶々 (安く)買ったことがきっかけの一つかもしれない。それ以降朝比奈氏のブルックナーのCDをいろいろ買ったし、版の問題にも少し関心が出たのである。
ちなみにこの「偶々安く買った」というのは、私の中でのいろいろな「出会い」に適用されるもので、決して馬鹿にはできないのである。人はそれが本当に必要な時には「向こうから近づいてくる」ものなのか…いやいや、素人哲学談義は止めよう。ちなみに私はCD所有枚数で言えば500枚くらい、楽譜も数冊所有という程度なので「ブルヲタ」としてはせいぜい「中の下」といったところであろう (画像は私の「ブルックナー棚」)。

さて、「ブルックナーの何がそんなに良いのか?」と尋ねられることがあるが、そういう輩には「愚問!! 黙って聴いてみろ!!」とけしかけるときもあれば「ブルックナーはかくかくしかじか…」と語るときもある。私は寛容なのだ。「ブルックナー、それは宇宙…」などと呟くのも時には効果的だが、そればかりではこっちが持たない。そういう時はブルックナーの音楽の特徴をいくつか「分かりやすく」語ってあげるのが、初心者への心遣いだといえよう。特にブルックナーの場合は「ブルックナーリズム」「ブルックナー開始」「ブルックナーゼクエンツ」など、「ブルックナー」の名を冠した「語法」がいくつもある (私はこれに「ブルックナー半音階」というのを付け加えたい。定義は「半音階で隣接する3つの音を上下する音形は、その範囲を抜け出す時跳躍進行する」というもので、画像は交響曲『第6番』のフィナーレだが、F-Ges-E-Fと半音階でうろうろした後は5度下降している。この音形はいろいろな交響曲で散見されるが、ぱっと思いつくものでは『7番』の第一楽章のテーマなどがある。他にもいろいろあるのだが…ただし、『2番』の冒頭や『5番』のフィナーレのようにこの例に当てはまらない場合もある)。
そう、数学においては「リーマン面」とか「ガロア群」とか「遠アーベル幾何」とか、人の名前がついた理論がいくつもあるのに、音楽の場合はほとんどない。「モーツァルト○○」「ベートーベン○○」って何かある? ワーグナーチューバは楽器名だよ。「トリスタン和声」はオシいけど、まあ強いて言えば「タケミツ・トーン」くらいだが、これも何となく「印象」であって、語法というまでは細かく言及されていない。ブルックナーの場合は一目瞭然なのだ。そのくらいブルックナーはワンパ…じゃなくて、何度も使用に耐え得る強い語法を見いだしたということで、これは鑑賞の手引きにもなるし「ブルヲタへの道」の第一歩には最適であろう。

もし宴の席などで「ブルックナーなんて長過ぎて飽きる」「どの曲もだいたい同じじゃね !?」「マーラーとブルックナーじゃ、圧倒的にマーラーじゃん」「あんなの好きでも絶対女の子にモテない」「つうか誰よブルックナーってww」などと言った発言を、私がうっかり聞いてしまったら、とても大変なことになる。老若男女問わず、ブルックナーをdisる輩には「千倍、万倍の反撃」を加え「口そのものを無くす」くらいの無慈悲な制裁を与えよう。場が凍り付くことは必定だが、我々は一撃で沈黙させる準備を常に整えているし、いざとなれば「直接行動」も辞さない構えだ。まあたいていは私の「コラ !?」の一睨みで大方ケリがつくので、今まで実際に「直接行動」に出たのはただの一回のみであるのだが。私はいささか珍しい種類の「武闘派ブルヲタ」ではあるが、寛容の心は忘れたくないと思っているよ。

★公演情報(木下正道 7月の予定)

7月21日 バリトンとギターのための作品が初演される予定です。
公募演奏会『ラ・フォリア』@霊南坂教会
https://m.facebook.com/events/417564958597540

7月25日 エレクトーンのための作品が初演/再演される予定です。
Yukino Ichikawa Electone recital vol.7@Tokyo Concerts Lab.
https://m.facebook.com/events/316932342063397

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木下正道(KINOSHITA Masamichi)
1969年、福井県大野市生まれ。小学生から高校生までの間の吹奏楽とハードロックの経験の後、東京学芸大学で音楽を学ぶ。大学入学後はフリージャズや集団即興、お笑いバンド活動なども行った。2001年度武満徹作曲賞選外佳作(審査員=オリバー・ナッセン)、平成14年度文化庁舞台芸術創作奨励賞、2003年日本現代音楽協会新人賞、などに入選。
現在は、様々な団体や個人からの委嘱や共同企画による作曲、優れた演奏家の協力のもとでの先鋭的な演奏会の企画、通常とは異なる方法で使用する電気機器による即興演奏、の三つの柱で活動を展開する。
作曲においては、厳密に管理された時間構造の中で、圧迫されるような沈黙の中に奏者の微細な身体性が滲み出すような空間を作ることを目指す。演奏会企画においては、演奏家との周密な打ち合せのもと、先鋭かつ豊かな音楽の様相を感じ取れるような音楽会を開催する。また電気機器即興は、多井智紀や池田拓実と「電力音楽」を名乗り、その他様々な演者とも交流し、瞬間の音響の移ろいを聴き出すことに集中する。
武生国際音楽祭で出会った作曲家(徳永崇、渡辺俊哉、星谷丈生)とともに、作曲家グループ「PATH」を結成、定期的に演奏会を開催する。