パリ・東京雑感|愛が信じられるとき~『トスカ』から『秒速5センチメートル』まで|松浦茂長
愛が信じられるとき~『トスカ』から『秒速5センチメートル』まで
text & photos by 松浦茂長( Shigenaga Matsuura)
4月5日にパリに来た。桜、リンゴ、リラ、藤などがもう花盛りになっていて、息をのむ華麗さだ。16日は復活祭。翌日の月曜日も休日で、この晩ドイツのバーデンバーデンからイースター・フェスティバルのオペラが放送された。
出し物はプッチーニの『トスカ』。幕間のインタビューが面白かった。ソプラノのクリスチーヌ・オポライスは、「この演出、トスカは自分の気持ちが不確かで、カバラドッシを愛していないかのように歌わなければならないのよ。難しい。テキストも音楽も愛を語っているのに、違うことを歌えというのだから。」と不満をぶちまける。
テノールのマルセロ・アルバレスは、演出家の意図に共感できなくもないらしく「愛よりも(歌手、画家の)プロとしての業績を重んじる現代的価値観を反映した演出ですから」と言う。今の時代、<愛>を真正面から掲げたのでは白けてしまうと、彼も感じているのだろう。「かつて愛はもっと純粋で明白でした。カバラドッシが愛を歌うとき、それは声の美しさを尽くし、心の底からの歌だった。彼は愛を本当に信じていたのです。でも、いま、どうやって愛をこのように歌うことができますか?問題が多すぎます。」と、ラテン民族らしい人懐っこい表情で熱弁をふるった。
純粋な愛はどこかに行ってしまったのだろうか?私たちはもう愛を信じることができない時代に生きているのだろうか?
恋愛は12世紀フランスの発明、という説がある。男と女のいるところ、地球上どこにだって恋はあるけれど、中世ヨーロッパは、恋愛を途方もなく理想化した。手の届かない高みにいる女性の意志に絶対服従し、彼女のためにあらゆる犠牲を嬉々として耐え忍び、一生をただその女性のために捧げる、現実を遠く超えた恋愛=理想の誕生だ。
だから中世の恋愛詩を読むと、いったいそれが詩人の恋人に対する情熱なのかそれとも聖母マリアに向かう祈りなのか区別がつかないほどだという。時代は下り、モンテベルディのマドリガルも、歌詞はつれない恋人を恨んだり懇願したり、『古今集』の恋のレトリックみたいに軽いのに、音楽は極端に崇高だったり、厳粛だったり、愛の陶酔なのか宗教的陶酔なのか戸惑うことが多い。
恋愛=理想は近代になってもワグナーの『トリスタンとイゾルデ』のような傑作を生んだし、今もあるいは映画の中に、あるいはオペラの演出の中に、そのバリエーションが見いだせる。(2016年2月の本コラム『恋愛=姦通神話と神秘主義』でピーター・セラーズ演出の『トリスタンとイゾルデ』を取り上げた)
写実主義文学の代表とされるフローベールの『ボヴァリー夫人』は、現実を超えた恋を恋する女の心理を残酷に描写している。
「彼女はレオンに恋していた。そして心ゆくばかり彼の面影を楽しむために孤独を求めた。レオンの姿を見ることは却ってこの瞑想の悦びを搔きみだした。エンマは彼の足音に胸をときめかせた。さて彼を前にすると感動は冷め、そのあとには果てしない驚愕だけが残り、遂にはそれが哀愁となって行った。」
「あの恋の悦び、あの熱っぽい幸福をいよいよ我がものにしようとするのだ。自分は或る霊妙不可思議な世界に入ろうとしている。そこではすべてが情熱であり、恍惚であり、狂乱なのだ。ほのかに青い千里の広袤(こうぼう)が彼女を取り巻いている。感情の山嶺は彼女の思念のもとに燦然と輝いている。そして日常の生活は遥か下の方、山々の峡間に罩(こ)める闇のなかにほの見えるばかりであった。」
ところで、恋愛=理想を発明した中世に恋愛結婚は存在しなかった。貴族の結婚はもちろん権力と富を拡大するための手段だったから、当人の気持ちは関係ない。恋愛結婚が常識になるのはヨーロッパでも第二次大戦後のことで、それまでは親が配偶者を選ぶのが普通だった。おまけにカトリック教会は離婚を認めないから、必然的に、恋=不倫。現実の恋は聖母への思慕にも紛う高尚な感情どころか、落ち着きのない情念だったろう。
一生を捧げる恋愛の理想は、現実の恋の心理の理想化ではない。それは現実と乖離した夢だった。結婚に幻滅したエンマ・ボヴァリーも、この夢物語=恋の神話にとびつき、<瞑想の悦び>にふけったのである。
さて恋愛結婚が当たり前になると、離婚も当たり前になった。ヨーロッパでもアメリカでも結婚の半分は離婚に終わる。では恋愛結婚は失敗だったのか?哲学者リュク・フェリーは失敗ではないという。昔の農村の結婚は、仲の悪い家同士を和解させるためだったり、農地を統合するためだったり、村の利益と安定を基準に決められた。だから不倫に対しては村全体の制裁が加えられた。貴族とブルジョアの結婚は、名と財産の都合で決められたから、夫と妻がそれぞれに愛人をもち、外見は良き夫婦のように取り繕う、いわば嘘で塗り固められた家が少なくなかった。
それにくらべ、現代の夫婦は互いの気持ちがすれ違えば離婚の危機に直面するのだから、絶えず愛を確認しなければならない。フランスでは年取った夫婦でも、どんなに愛しているか、機会あるごとに相手に伝える努力を怠らない。
友人グザビエの郊外の家に食事に呼ばれたとき、職場まで何分かかるか聞くと、「行きは1時間。でも、帰りは50分しかかからないよ。エリザベートの顔を一刻も早く見たいから、駅の階段だって走って上がり一目散に帰るからね」とのろけるし、食事が出ると、細君の仔牛ローストがなぜうまいかを子細に説明する。食べてみるとぱさついてしまりのない味だったが、グザビエの熱弁に免じておいしそうな顔をせざるを得なかった。
リュック・フェリーの<愛の革命>論に従えば、現代の愛のほうがピュアーなのではないか。離婚の脅威に迫られ、絶え間なく愛の鮮度を保つ工夫をしなければならないのだから、相手の気持ちを読み取る感性が研ぎ澄まされ、思いやり深い家庭が築かれる。愛の心理について言うなら、昔よりよほど敏感で正直になってきたはずだ。ところが、本当は愛が純化された時代に生きているのに、マルセロ・アルバレスが「かつて愛はもっと純粋で明白だった」と言うと、私たちも「そのとおり」と納得してしまう。なぜだろう?
それは、かつてあれほど自明だった恋愛=理想の神話が急速に力を失ったから。現代人は<愛>が信じられないのではなく、<愛の物語>が信じられないのだ。
現実の愛がいかに純化されたといっても、日常の人の心は熱したり冷めたりわき道にそれたり、有為転変は避けられない。愛の中に確かなものをつかもうとするとき、何を頼りにすれば良いのだろう。人間は、<物語>の助けを借りずに、愛の確かさを信じることが出来るのだろうか。
しかし、不思議なことに、僕はこのテレビ中継を見て初めてカバラドッシとトスカの愛を信じることができた。なぜだろう?最初の幕のカバラドッシはほかの女にも心惹かれているし、トスカの嫉妬は喜劇と紙一重。純粋な愛どころか、自然主義を思わせる等身大の情欲描写で始まる。スカルピアはトスカの嫉妬を利用してカバラドッシの行方を知ってしまい、彼女の弱さのために友人の政治犯も見つかって処刑される。志高い男たちが、トスカの愚かさによって死んでゆく。いつもこのオペラを見ると、トスカの馬鹿さ加減と馬鹿な愛人に秘密を洩らしたカバラドッシの良い加減さが気になって、《歌に生き、愛に生き》を素直に聞けなかった。ところが今回は無条件で感動してしまった。
このマジックの秘密は、逆説的だが<愛の物語>がもはや自明ではないという認識を歌手と演出家が共有したことにあるのではないか。愛を信じることができない、という苦い自覚を通じて、魔法のように愛の<神話>を呼び覚ますことができたのだ。
<神話>の呼び覚ましといえば、現代の映画にもふっと超越的な愛が紛れ込み、失われたものへのノスタルジーを感じさせてくれる作品がある。『君の名は』がヒットした新海誠監督の『秒速5センチメートル』は中学1年生の恋。岩井俊二監督の『Love Letter』(1995年)は高校生の恋(正確には告白以前の恋の予感)。どちらも若い日の純粋な思いが、大人になってからの散文的な日常と鮮烈なコントラストをもって描かれていた。
ヨーロッパ・アメリカでは中年の男女に永遠の恋が降りかかる。クリント・イーストウッドの『マディソン郡の橋』(1995年)は、農家の主婦と写真家の不倫を<生涯に一度きりの確かな恋>として描いた。ブノア・ジャコの『3つの心』は偶然一夜をともにした男女が再会に失敗し、男はそれと知らずに女の姉と結婚する。女も男を忘れられないが、姉を思って姿を現さない。数年後、2組のカップルはフランスとアメリカで静かな家庭を築いたと見えたところで、古い恋の情念が爆発し破局に至る。こんな18世紀文学みたいなストーリーの映画が2014年に作られ、陳腐に見えなかったのはなぜだろう?
これらの映画を振り返ってみると、共通のものが浮かび上がってくる。主人公は子供だったり中年の主婦だったり、典型的な恋のヒーロー・ヒロインから外れている。彼らの日常はいたって平凡で、『3つの心』のヒーローなどはくたびれた税務署員。彼らはロミオとジュリエットのような生まれながらの恋の英雄ではなく、運命的な恋は彼らの人生の一瞬の例外的出来事なのだ。
人生には永遠と一体化する恩寵の時がある。私たちはその一瞬の思い出を支えに日常を生き、あるいはその一瞬がいつかやって来ると希望し続けることで人生に耐える。現代はそんな<物語>を切実に求めているのかもしれない。復活祭のトスカはその一瞬の恩寵の時を信じさせてくれたのだろう。(2017年4月30日)