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京都市交響楽団第611回定期演奏会|能登原由美

京都市交響楽団第611回定期演奏会

2017年4月21日 京都コンサートホール
Reviewed by能登原由美

<演奏者>
指揮:アレクサンダー・リープライヒ
独奏:北村朋幹(ピアノ)
管弦楽:京都市交響楽団

<曲目>
メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」op. 26
ショパン:ピアノ協奏曲第2番へ短調op. 21
 (アンコール)
  メンデルスゾーン:無言歌op. 38-6
〜〜〜〜〜〜
ルトスワフスキ:管弦楽のための協奏曲

 

音を聴くだけで同時に様々な色が目に映るという共感覚。幸か不幸か、私にはない。けれども、頭の中に何かしらの視覚的なイメージは絶えず沸き上がってきた。視覚が呼び覚まされた演奏会、といえようか。京都市交響楽団第611回定期公演である。

ドイツ生まれ、現在はポーランド国営放送響で首席指揮者兼芸術監督を務めるアレクサンダー・リープライヒがタクトを握った。ショパンとルトスワフスキという二人のポーランドの作曲家を取り上げたのは現在の彼自身のポジションが理由の一つであろうが、さらにメンデルスゾーンについては、「好きな作曲家」なのだとプレトークで述べていた。ここ数年力を入れているという作曲家を携えての登場。

さらにそのプレトークでリープライヒは、彼が今もっとも重視する部分なのであろう、「音の色彩感」のことを何度も口にした。演奏を聴いて視覚が刺激されたのは、こうした話を事前に聞いていたせいかもしれない。

とはいえ、最初のメンデルスゾーンの《フィンガルの洞窟》からして彼の音色に対する強いこだわりは明らかだった。アーティキュレーションやダイナミクス、あるいはヴィブラートなど細部にわたって工夫が施される。ただしその色彩は、ゴーギャンの画のように明るい日差しのもとコントラスト豊かに浮き立つ強く激しい色合いではない。むしろターナーの画のように、薄霧のかなたにぼおっと浮かび上がるような、湿り気を帯びた柔らかな色合いである。ちなみにターナー自身にもこの洞窟を題材にした画があるが、こちらは湯気を立てる蒸気船も印象深く描かれており、この曲のイメージとは少し異なるように思う。

その色彩感は、少なくとも今のリープライヒにとっては感情の表出以上に重要な要素であるようだ。メンデルスゾーンやショパンといったロマン派を代表する作曲家の作品を振るとそれがよくわかる。実際、ショパンの《ピアノ協奏曲第2番op. 21》については、プレトークの中でその甘く感傷的な側面よりポーランドという土地の民俗的、土着的な側面を強調していた。ソリストを務めた北村朋幹のピアノは繊細だが感傷に浸ることもなくごく自然に流れていく。第3楽章では舞踊の旋律とリズムが強調されるなど、リープライヒの言葉通り、色彩感があり、かつ土着的なショパンを聴くことができた。

一方、ルトスワフスキの《管弦楽のための協奏曲》は何とも難しい曲だ。単に個々の奏者の技巧や指揮者のバトン・テクニックの高さが要求されるだけではなく、アンサンブルとしてのまとまりがなければ派手さだけがやたらと目立つ曲になる。その点、京響の奏者のレヴェルには感嘆した。音色、リズム、推進力共にオケ全体の要となっていた打楽器セクションや、クリアで軽めの音に調整された金管セクションなど、職人芸的な頼もしさすら感じられる。いや、このオケだからこそプリズムのようにきらめく音色を引き出せたのかもしれない。リープライヒの「音の色彩感」を堪能できるものとなった。

それにしても、リープライヒは聴き手を圧倒するようなパワー・プレイというよりは、細部にわたって考え抜かれた演奏をする。その演奏に派手さはないが、地道でひたむきな強さを感じさせるものがあった。そのあたり、大国に蹂躙され苦難の歴史を歩んできたポーランドの人々の、底に秘めた気質にも通じるといえば言い過ぎであろうか。もちろん、リープライヒ自身はドイツの生まれだけれども、伝統あるポーランド国営放送響で外国人初という首席指揮者兼芸術監督の任を全うするには、当地の音楽界にもみられた暗い過去の一側面を理解できていなくてはならないだろう。

だからと言って、ノスタルジーや感傷を誘うわけではなく、あるいは「ポーランド性」を誇示するようなナショナリズムやフォークロアなどには収斂されない演奏であったことは、最後に強調しておきたい。