井上郷子 ピアノリサイタル#26 近藤譲ピアノ作品集|齋藤俊夫
2017年3月5日 東京オペラシティリサイタルホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
ピアノ:井上郷子
<曲目>
(全て近藤譲作曲)
『イン・ノミネ(レスニェフスキー風子守唄)」(2006)
『夏の小舞曲』(1998)
『メタフォネーシス』(2001)
『ギャマット』(2012)
『テニスン歌集』(2011)
『視覚リズム法』(1975)
『カッチャ・ソアヴェ』(2016、世界初演)
『間奏曲』(2017、委嘱作品、世界初演)
近藤譲の音楽を語るのは難しい。いわゆる現代音楽の超絶的な構造(例えばシュトックハウゼンやクセナキスのような)は持たないが、だが明らかに現代音楽でしかありえない音楽。聴きながら聴覚や体の芯が「ずれて」いくような、しかし決して熱くならず冷たい感触のその体験をどのようにして語ればよいのだろうか。
例えば今回の冒頭に演奏された『イン・ノミネ』の、伝統的な機能和声からは遠く離れ、だが無調や復調でもない謎の和声進行に宿る整然とした静かな狂気、そしてそこに宿る美をどのように語れるであろうか。
『夏の小舞曲』『リトルネッロ』の一瞬一瞬ごとに音楽の表情が変わりつつ反復され、複数の音楽が同時に演奏されているような不可思議な書法。『メタフォネーシス』の一音一音が高音であっても重く、全てが完全な音楽的必然に沿った音楽。歩いても歩いても前に進めない悪夢のようでいてやはり美しい音楽。
比較的近作が取り上げられた(『夏の小舞曲』の1998年以後)今回の演奏会では異色な1975年作の『視覚リズム法』の複雑な変拍子と声部間でのポリリズムを伴いつつも禁欲的な書法も、語らずにはいられない。楽章ごとに少しずつずれていくが進んではいかない「偽反復」「力動的静止」(プログラムノートの近藤譲の言)という矛盾しているものが同居する不条理な音世界。
可愛らしいが毒のある小品『ギャマット』。不吉な序曲に始まり、決して音量が大きくないのに何故か猛々しい第1楽章、一転して変拍子による舞曲的な第2楽章、現れては見えなくなる、特殊奏法より謎めいた多声部書法の第3楽章による『テニスン歌集』。
『カッチャ・ソアヴェ』の延々と狭い音域で同じような楽想が繰り返される、休むことのないカノン。そして最近作『間奏曲』の前半ではこれまでの近藤作品にはなかった、かつてのブーレーズのトータル・セリー作品にも似た複雑な構造の、多声部なのかどうかもわからない乱反射した音楽が現れ、後半に入って和音が静かにとつとつと奏でられて終曲する。
どの作品も確かに近藤でしかありえない音楽なのだ。だが、どこが近藤なのかと問われると答えることができない。否定神学的に「あれでもなく、これでもない」音楽が近藤の音楽だと言うしかないのだろうか?いや、どこかに近藤が近藤たる「なにか」があるに違いない。だからこそ近藤の音楽を語りたくなるのだ。その「なにか」を井上郷子の才能をもって束の間耳にできた今回の演奏会は忘れ得ぬものとなった。