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チェロアンサンブルの愉しみ|小石かつら

ALTI芸術劇場 Vol.33
チェロアンサンブルの愉しみ
トップチェリストによる珠玉のアンサンブル

2017年3月31日 京都府立府民ホール“アルティ”
Reviewed by 小石かつら(Katsura Koishi)
Photos by 河合裕子/写真提供:京都府立府民ホール“アルティ”

<演奏>
上森祥平
上村昇
河野文昭
林裕
藤森亮一

<曲目>
G. F. ヘンデル(河野文昭 編曲):ソナタ ト短調 Op.2-8 HWV393 〈3Vc〉
J. S. バッハ(ポール・バズレール 編曲):プレリュード ト短調、リュート組曲BWV995より〈2Vc〉
J. S. バッハ(カジミエージュ・ヴィウコミルスキ 編曲):サラバンドとガヴォット ニ長調、無伴奏チェロ組曲第6番BWV1012より〈4Vc〉
J. S. バッハ (アニタ・ヒューイット=ジョーンズ 編曲):プレリュードとフーガ ハ短調BWV867〈5Vc〉
~休憩~
G. ビゼー(W. T. トーマス・ミフネ 編曲):カルメン組曲〈5Vc〉
D. ショスタコーヴィチ(林裕 編曲):24の前奏曲とフーガOp.87より
  No. 3 前奏曲とフーガ ト長調
  No. 22 前奏曲 ト短調
  No. 24 前奏曲とフーガ ニ短調

 

愛されている演奏会である。舞台まで埋め尽くした満席の聴衆から。そしておそらく、演奏者自身からも。
室内楽の演奏会というと、難しい、玄人向け、というふうに思われがちで、少し敷居が高いイメージがつきまとう。けれどもこの演奏会には、そんな雰囲気は微塵もない。いや、誤解があっては困る。この演奏会が、易しい素人向け、というわけではない。そのような先入観もしくは一般論とは、まったく無縁の境地であると言いたいのだ。とにかく、愛されている。

プログラムは、ヘンデルのソナタで始まった。ヴァイオリン2本と通奏低音のための作品を、3本のチェロのために編曲したものだ。プログラムは全曲が編曲モノだが、このヘンデルと、プログラム最後のショスタコーヴィチはメンバーによる編曲である。
アンコールを除くとプログラムは全6曲で、チェロ2本、3本、4本のための曲がそれぞれ1曲。残り3曲は5本のための曲だ。これらの作品において、5人のチェリストのパートは決まっていない。それどころか、まるでパズルのように1曲ごとに組み合わせが変わる。司会を担当した河野の出番が1回だけ少なくて、他のメンバーは5回ずつ出演し、それぞれ見事に担当するパートが入れ替わる。ひとつも同じ組み合わせは無い。

この組み合わせのバリエーションがもたらす色彩の変化が、このアンサンブルの真のおもしろさだと思った。それぞれのパートは、同じチェロではなく別の楽器で弾いているのかというくらい、まったく音の質が違う。艶も、輝きも、明暗も、湿度も、響きも、音量も、勢いも。この音の違いは、それぞれの奏者の個性によるものだと思っていたら、次の曲でパートが入れ替わると、さっきの曲とは違う音を、それぞれの奏者が出してくる。つまり、それぞれの奏者が、それぞれの個性でもって放つ音の差異と、自身の担当するパートによって弾き分ける差異とが、二重に効果を発揮するのである。このおもしろさは、演奏中に拍手したくなるほど。しかもそれが、すべての曲において、完全に異なる組み合わせで迫ってくる。

プログラムの中で異彩を放っていたのが「カルメン組曲」だ。これ以外の曲目が、独奏曲もしくは室内楽からの編曲なのに対して、「カルメン」の原曲はオペラである。それも、闘牛士やジプシーが登場して、騒がしくて物騒なオペラである。舞台では合唱がひしめき、オーケストラが大音量で鳴る、あのカルメンが、チェロ5本の作品となって演奏された。
その結果、「室内楽」というジャンルの特性がきわだったのだ。一人ひとりの存在をたしかめ、対話しながら、空気を醸して響きの総体をふくらませていく室内楽のやり方は、19世紀後半の、指揮者が主導する大規模なオペラの手法とは決定的に異なる。チェロ5本で演奏されることによって、劇場でのみ体験できる圧倒的なスペクタクルの「非日常としての音楽」が、息づかいや肌のぬくもりといった親密さで紡がれる「日常としての音楽」に変わる。ああ、だからこそ、このチェロアンサンブルは、愛されているのだと思った。

京都で1982年から続くチェロアンサンブルの演奏会。5人のアンサンブルとしても14回目だ。ここもまた劇場だということを忘れさせるほど、日常的な空間として存在する府民ホールで、「また来年」と、皆が思っただろう。もちろんプログラムには、「来年」の演奏会がちゃんと予告されている。安心である。