カデンツァ|この人でしかありえないppppp・・・山根一仁を聴いて|丘山万里子

この人でしかありえないppppp・・・山根一仁を聴いて

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
photos by 藤本史昭/写真提供:トッパンホール

この人の持つ弱奏世界はちょっと特殊だ。
弦というのは、弓が触れないと鳴らないが、その触れるか触れないかの境界のわずかな間隙に忍び入って秘めやかに響かせる。
最初のイザイですでにそれはわかったのだが、後半のバルトークの『無伴奏ソナタ』第3楽章には魂を引き入れられた。

1995年生まれ、まだ21歳。トッパンホールの<エスポワール・シリーズ>、最初の登板は2014年史上最年少で。今回はその最終章だが、私は初めて聴く。
2009年全日本学生音楽コンクール中学校の部全国大会第1位、翌年中3で日本音楽コンクールに優勝、桐朋を経て2015年ミュンヘン音楽演劇大学に在学中、との経歴から「完璧なテクニック、豊かな音楽性、強靭な表現力」といった「よくあるパターン」を予想したが、違う。それが、冒頭に述べた特異な弱奏で、そこに私は彼の音楽家としてのアイデンティティを見る気がした。

と、ここまでレビューのつもりで書き始めたのだが、受け取ったものが、それではちょっと収まりそうにない、と思い、こちらにする。

続けよう。
バルトークの第3楽章メロディア、アダージョがどんなだったか、というと。
まだ明けきらぬ朝もやの森。生きものたちのまどろみと目覚めをはさむ静けさの中、小鳥たちの声が時折、ちっちっと聞こえ、その静寂のヴェールを指先でそっとめくるように進むと、小さな湧き水が足元でかすかな音を立てている。
山根のヴァイオリンは、異国に散ったバルトークの最後の完成作品となったこのソナタのこの楽章で、尽き果てる命の予感のなか、夢うつつに故郷ハンガリーの自然に包まれ逍遙する作曲家の魂に、黙して寄り添う。その沈黙の響きのはかり知れない深さ。生と死の狭間に横たわる薄明と幽暗。弱音器、ばかりでは決して生み出せない、ppppp・・・とpが無限に続くくらいの弱奏世界(その中での音色の多彩)は、この人でしかありえない「何か」を感触させた。

この「何か」は、この日の演目全て(バッハへのオマージュに貫かれた)にあったもので、アンコールで弾かれたバッハ『シャコンヌ』にも浮かび上がり、私はそれが何なのか、ずっと考え続けている。この人に、お、と思ったのは他にもいろいろあるが(バッハでの通奏低音と旋律の見事な綾取りとか、バルトークの冒頭、裂帛の気合いでの凄まじい一弓とか)私が立ち止まったのは、やはりppppp・・・で、それが彼の本質(音楽ばかりでない、というより音楽から覗ける、存在そのもの)、と思えた。

そうして、以前に「その人がその人そのもので在り続けること」というエッセイを書いたことを思い出した(ファジル・サイとパトリツィア・コパチンスカヤについて、だった)。
そこで私は知り合いの精神科医から送られたアイデンティティについての小文を紹介したのだが、再録する。

「アイデンティティ(同一性)とは、第一に自己の単一性、連続性、不変性、独自性の感覚、つまり自分自身は他の誰かではなく、生まれてから今まで時間的に連続しているという感覚である。もしこの一貫性の感覚を失うと自我障害となる。」
「第二に、周囲の人びとや一定の人と経験を共にしているという斉一性の感覚により成り立っている。」
「個人は幼児より、母、家庭、友人知人などの対人関係において様々な役割をはたしながら成長していくのだが、それらの様々な役割を秩序づけ、統合していく機能をego-identity(自我同一性)と呼ぶ。」

つまり、「単一、連続、不変、独自」の感覚、「私は私としてずっと私で、私は変わらずにそこにある」という感覚が一つ。これは、言って見れば不動態。
もう一つは「関係において役割をはたしつつ成長してゆく」という、「私は時々の“他”との関わりの中でヴィヴィッドに、私であることを変貌させてゆく」。これは動態。
肝心なのは、この第一と第二の両者の間を揺れ動きつつ一つに統合させてゆく不断のダイナミズムであって、それこそがアイデンティティというものなのだな、というのがこの時の了解だった(ついでに言っておくと自意識とアイデンティティは無論別物だが、これを履き違えている演奏家が実に多いのだ)。

さて、私は山根のppppp・・・に、この人でしかありえない「何か」を感じ、第一の不動態としての彼の独自の感覚について考えた。だって、「こういう音が欲しい」(色、形、匂い、手触り、味わい、などもろもろ)という彼の中の欲求あるいは欲望こそが、この音をこの音たらしめているのだから(ここで音、というのは、あそこをああ弾こう、こう弾こう、というようなこととはちょっと違う話)。それは、明らかに彼にしかない、他の誰にもすげ替えることのできない唯一無二の、動かしがたいもの。
それはどこから来るんだろう?

一方で、彼のキャリアに私は「よくあるパターン」を予想したが、そういう外的な事象(周囲の状況、他との関係性)——例えば、幼少時からコンクールを受けるために費やされる時間とその内容が、瑕疵のない優等生的演奏しか生み出さない、とか、海外留学による環境の変化がもたらす成果うんぬん、とかいう、ありがちなパターン——と関わりなく、つまり第二の動態より、より本源的な(本質的な、という言葉を前述で使ったが)ものがあって、やはり核心は第一の不動態だな、と頷きそうになり、いや、その二分項は違う、第一の不動態、第二の動態というふうに考えるのは便宜上であって、それは不即不離、不分明なもので、この人の「こういう音」はそれ、もしくはそれらが互いに互いを動かし、動かされつつ、その都度、統合してゆくダイナミズムとしての自我、つまりアイデンティティの発現なのであろうな、と改めて考えた。

それでも、私は、「それはどこから来るんだろう?」を掘り当てたい気持ちを抑えられない。
とにかく私はバルトークの第3楽章の異様な静けさをこそ「この人でしかありえない」世界だ、と感じたのだから、そこをじっと覗き込んでしまう。
で、ああ、黙して寄り添う、と述べた、そこだな、と思ったのだ。バルトークの抱えていたであろう魂の風景(第3楽章がそういう音楽であるか、とか、他の人にもそういう風景が見えたかどうか、は別として)に、「黙して寄り添う」心の在りよう。私はそれを一気に、「傷む心」と言ってしまいたいが、どうだろうか。
ではその心がどこから来るのかなんて、うーん。・・・これについては、昔、敬愛するチェリスト、故青木十良氏とのお話で伺ったことがあり、氏は「芸術に必須なのは、痛みです。」とおっしゃっていた。あんまり深い言葉なので、ここではこれで話を切り上げてしまうけど。

終演後、タクシーに乗ろうとしたら、バタバタ息急き切って駆けつけてきた中年女性が「あっ」と小さな悲鳴をあげた。どうしてもこのタクシーに乗りたかったらしい。とっさに、「飯田橋ですけど、ご一緒しますか?」と聞いたら、「いいですか、東京駅も行きますか?」と乗り込んできた。「最終が10時なんで、間に合わないと帰れないんです!」
名古屋から来たという。名古屋で聴き、今度は無伴奏を、だとかで。「弱い音がすごかったですねえ。」と彼女は言った。
山根はすでに、こういうファンを掴んでいるのだ。

そうして思う。
彼の音楽に何を受け取るかは、様々だろう。
ただ、そのppppp・・・に、私がその人のアイデンティティとか何とかを考え、「これは何だろう」という、どこか深いところへの「呼びかけ」を聴いたことは確かだ。
それは、この時の山根の音楽とこの時の私の聴取の間にしか起こりえなかったものであったにしても(今回のテーマがバッハであったことはわかるが、私にとってはバルトークが触媒だった)、そういう「時間」がそこに生起したことを、私はやはり大切にしたいし、それは数多のコンサートの中で、そうそうあることでもないのだ。
「新世代の旗手」とか、「期待の大器」とかいうキャッチコピーは、私にはなんだか馴染まない。

山根がこれからどういう音楽家になるのか、それはわからない。
この年齢の時、自分はどんなだったろう、と思い巡らすと。
これきり、という恋に破れ、もう二度と人は愛さないと決め、生きることに途方に暮れてしまった、そんな時、本当に、「音楽というもの」(生は常に死を孕む)に出会ったんだ。
私にとっての「音楽というもの」は、今でもちっとも変わらない。

あなたにとっての「音楽」とは何ですか?

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2017年3月10日@トッパンホール
<曲目>
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 Op.27-2
レーガー:無伴奏ヴァイオリンのための8つの前奏曲とフーガOp.117より 第4曲 ト短調〈シャコンヌ〉
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ短調 BWV1003
バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ Sz117
(アンコール)
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番 ニ短調 BWV1004より第5楽章 シャコンヌ