B→C バッハからコンテンポラリーへ 190 中村恵理|藤堂清
B→C バッハからコンテンポラリーへ 190 中村恵理(ソプラノ)
「悩める女性の群像」
2017年3月21日 東京オペラシティ リサイタルホール
Reviewed by 藤堂 清(Kiyoshi Tohdoh)
<演奏>
中村恵理(ソプラノ)
リチャード・ワイルズ(ピアノ)
<曲目>
クララ・シューマン:《3つの歌》op.12から「彼は嵐と雨の中をやってきた」
クララ・シューマン:《6つの歌》op.13から「私はあなたの眼のなかに」
クララ・シューマン:《3つの歌》op.12から「美しさゆえに愛するのなら」
ファニー・メンデルスゾーン:《12の歌》op.9から「失うこと」
ファニー・メンデルスゾーン:《6つの歌》op.1から「朝のセレナーデ」
J.S.バッハ:カンタータ第57番《試練に耐えうる人は幸いなり》BWV57から
「俗世の命を速やかに終えて」「私は死を、死を望みます」
ワイルズ:《最終歌》(2016、中村恵理委嘱作品)から
「エピソード ── 三島由紀夫『天人五衰』より」
グバイドゥーリナ:《T.S.エリオットへのオマージュ》(1987)から
「冷気が足元から膝に上ってくる」
ショスタコーヴィチ:《アレクサンドル・ブロークの詩による7つの歌》op.127(1967)から
「ガマユーン」
——————–(休憩)————————
メシアン:《ミのための詩》から「恐怖」「妻」
リリ・ブーランジェ:《空の晴れ間》から
「ベッドの裾のところに」「二本のおだまきが」
ルトスワフスキ:《歌の花と歌のお話》(1989〜90)から「かめ」「バッタ」
ワイルズ:《分裂と征服》(1993)から「なんと奇妙な」
ヴェルディ:《椿姫》から「そはかの人か…花から花へ」
——————(アンコール)——————–
ワイルズ:《最終歌》から
「エピソード ── ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』より」
中村恵理は昨年5月から6月にかけ日本全国でリサイタルを行い、歌手としての成熟を示した。この日の演奏ではそれを上回る集中力と熱いものが感じられた。
東京オペラシティの主催する人気シリーズ「B→C バッハからコンテンポラリーへ」の190回、サブタイトルが「悩める女性の群像」というリサイタル。プログラムをみて気付くのは、女性作曲家の作品が多いこと。クララ・シューマン、ファニー・メンデルスゾーン、グバイドゥーリナ、リリ・ブーランジェと並ぶ。もう一つは、この日のピアニスト、リチャード・ワイルズを取り上げていること。曲集《最終歌》は中村自身が委嘱した作品である。
最初の3曲は昨年のリサイタルでもプログラムに入っていたが、今回は言葉の細かいところまで前回以上に注意を払い、またダイナミクスも大きく歌っていた。<美しさゆえに愛するのなら>での、3節目までと4節目での声の色を変えた歌い分けには感心。
続くファニー・メンデルスゾーンの作品は、筆者の印象では作品自体の完成度が落ちるように感じられる。<失うこと>は、シューマンの《詩人の恋》の第8曲で馴染みのハイネの詩への付曲、そのテンポ感が頭にあるためどうしても切迫感に欠ける音楽と聞こえてしまう。中村の表現に問題があるわけではないのだが。
J.S.バッハの時代の曲としては、彼のカンタータ第57番からの2曲のアリアが歌われた。ここでは、彼女の低音域の充実が聴き取れた。”Tod”という言葉で大きな音程の飛躍があるのだが、響きも音程も揺らぐことがない。もちろん、細かな音の動きにも対応していた。
一方、現代の作曲家の作品、ワイルズ、グバイドゥーリナ、ショスタコーヴィチも面白く聴いた。ワイルズの曲はこの日歌われた唯一の日本語の作品、三島の言葉がストレートに伝わってきた。
後半は、メシアン、ブーランジェ、ルトスワフスキとフランス語の歌曲が続く。歌詞に対するこだわりはこちらでも変わらない。ブーランジェの控えめな音楽が心にしみた。
ワイルズのポップ調の婦人参政権を求める女性の歌、表情豊かで楽しく聴いた。
プログラムの最後に置かれたのは、ヴェルディの<そはかの人か…花から花へ>。彼女にとっては重すぎる曲ではないかと危惧したが、弱声から強声までコントロールし、最後の高音は回避したものの見事に歌い切った。
この4月に新国立劇場で歌う《フィガロの結婚》のスザンナでも、彼女の充実ぶりが聴けるだろう。大いに楽しみ。
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