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プッチーニ 歌劇《蝶々夫人》|谷口昭弘

全国共同制作プロジェクト プッチーニ 歌劇《蝶々夫人》

2017年2月19日 東京芸術劇場
Reviewed by 谷口昭弘(Akihiro Taniguchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮:ミヒャエル・バルケ
演出:笈田ヨシ

蝶々夫人:中嶋彰子
スズキ:鳥木弥生
ケイト・ピンカートン:サラ・マクドナルド
ピンカートン:ロレンツォ・デカーロ
シャープレス:ピーター・サヴィッジ
ゴロー:晴 雅彦
ヤマドリ:牧川修一
ボンゾ:清水那由太
役人:猿谷友規
いとこ:熊田祥子
ダンサー:松本響子
父親:川合ロン
召使:関裕行、松之木天辺
村人:重森一、山口将太朗
合唱:東京音楽大学
管弦楽:読売日本交響楽団

 

2月19日に東京芸術劇場で上演された歌劇《蝶々夫人》は、すでに金沢歌劇座や大阪のフェスティバルホール、群馬音楽センターで上演され、特に笈田ヨシの演出が話題になったプロダクションである。《蝶々夫人》というと、日本人にとっては、ヨーロッパ人の考えた日本や、そこに登場する人たちの所作があまりにも私たちが考える日本人と乖離しているために、ストレートに飲み込めない作品となることが多い。一方で日本人による演出、日本人による歌唱というだけで、どことなく安心感を感ずるというのも事実だ。

今回の公演はそういった、日本人から観て珍妙な自国の描写というのはなさそうだと安心できるのと同時に、笈田自身の人物・舞台設定の面白さもあった。当日のプログラム・ノートによると、この《蝶々夫人》は「昭和初期の長崎」が舞台とされており(終戦直後を思わせる記述もある)、蝶々さんも世間知らずのナイーブな人では捉えきれない、自ら信念をもって日本の古い風習や信仰を捨てた一人の女性として決然と振る舞う姿を見せる。第2幕ではモンペにチャンチャンコという出で立ちの蝶々さん。有名な<ある晴れた日>では、歌い終わる瞬間に泣き崩れ、無邪気にピンカートンの帰りを信ずる彼女ではないことが暗示されていた。それでも自分の置かれた境遇と達観し、最終的には死への道を歩んでいく。かつて自分の父親が切腹した時の短刀を取り出し、自分の胸へ…。そして舞台はここで暗転する。彼女の結末は聴衆の一人ひとりが想像することになる。

ピンカートンは、欲望の欲しいままに、日米間の協定で米国人に与えられた権利を当然のこととして行使する。蝶々さんとの初夜を迎える彼は「おいで、おいで」と快楽を謳歌し、ときめきたつ。多くの聴衆がピンカートンに対する反感を覚えるのは当然のことだが、このオペラに描かれているその脳天気なアメリカ人としてのピンカートンも、実はヨーロッパから見たアメリカ的ステレオタイプを映し出すものになっているのかもしれないことを、今回の公演で感じた。こういった不平等な制度なり人物描写のステレオタイプは、現在の社会にも通ずる問題だが、背後には、そういったものを作り出す人間の存在があり、我々自身がそれをどう問題として意識していくかということにもなっていく。

もともとオペラ劇場ではない舞台での上演を考えているためなのか(最初の公演地である金沢歌劇座にしても、もともとは金沢市観光会館という多目的ホールだった)、今回の上演では、コンパクトな舞台空間を、パーティションを用いるなどして座敷にしたり寝室にしたり、効果的に使っていたのが印象に残った。また蝶々さんの婚礼のシーンにおける紅白の美しいコントラストは、祝祭的な場の日本の美を麗しく表象するものだった。
それと対照的なのが、第2幕の半ばあばら屋を想起させる補修を施されたようなデザインの屏風で、はかない登場人物の境遇を如実に浮き立たせていた。そのほか星条旗を大きく舞台上に象徴的に見せつけたり、舞台後方に紗幕を張って、蝶々さんの心に浮かんだ人々を登場させたり、聴衆の一人ひとりが物語の世界に入り込むための様々な工夫があった。

音楽面に目を転じてみると、オーケストラと客席との間には確かに区切りがあり、舞台との高さに差はあるものの、通常のピットではないこともあり、オーケストラの音は直接耳に届く感覚があった。その音は疾風怒濤の冒頭から圧倒的な迫力となり、ダイナミックで立体的に立ち上がった。またプッチーニが書き綴った旋律の美しさも麗しい音色で奏でられ、このオペラの醍醐味を体感できた。ただ一方で、やや遠目の歌手たちの声はオーケストラのヴェールのさらに後ろにあるようで、彼らの声を聴き定めるのはそれほど容易ではなかった。それでも力強く包み込むような、それでいて若々しい優しさのあるロレンツォ・デカーロのピンカートン、そのピンカートンへの思いの一途さを切々と歌い紡ぐ中嶋彰子の蝶々夫人、仕草の存在感もあった晴雅彦のゴローなど、大きな物語の中で、それぞれが役割を演じきっていたことは充分伝わってきた。