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こんにゃく座公演 オペラ『想稿・銀河鉄道の夜』|齋藤俊夫

オペラシアターこんにゃく座公演 オペラ『想稿・銀河鉄道の夜』

2017年2月4日 昼公演 世田谷パブリックシアター 
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 青木司/写真提供:こんにゃく座

<スタッフ>
原作:宮沢賢治
台本:北村想
作曲:萩京子
演出:大石哲史
美術:杉山至
衣裳:半田悦子
照明:成瀬一裕
振付:伊藤多恵

<出演>
ジョバンニ:島田大翼
カムパネルラ:北野雄一郎
宮澤先生・大学士・用務員・素粒子:髙野うるお
先生・尼僧:梅村博美
ザネリ・青年・素粒子:佐藤敏之
車掌・生徒・大学士の助手:富山直人
少女・生徒・素粒子:高岡由季
生徒・素粒子・大学士の助手:熊谷みさと
生徒・素粒子・母の声:齊藤路都
生徒・素粒子:小林ゆず子
生徒・素粒子:冬木理紗

<演奏>
クラリネット:橋爪恵一
チェロ:津留崎直紀
ピアノ:服部真理子

 

筆者はこんにゃく座の舞台を観劇するのは初めてなのだが、なるほどなるほどと感心することしきりであった。「日本語による」歌を聴かせるために、レチタティーヴォとアリアの中間のような微妙な旋律感を持った歌、その歌と少ない楽器をアンサンブルさせるためのオーケストレーション、小さな舞台の上で劇を進行させる演出技術、全てが完成された1つの音楽的・舞台的宇宙を成している。過不足ないこの宇宙に文句を言うのは野暮かとも思われた。

だが、である。過不足のないこの舞台に、いや、過不足がないからこそ、この舞台に物申したくなってしまうのである。オペラとは「過剰」や「不足」があってこそ面白いのではないか?と。

まずは音楽、歌の観点から。たしかに日本語歌謡として完成された形式ではあるが、約2時間の中で心に残るような歌が1つもなかったのはどういうことだろうか。カムパネルラの北野雄一郎の美声はなかなか聴かせてくれたが、しかし歌全体としてはどうにもインパクトのない、無難だがそれゆえに減点もないが加点もできないものであった。映画『天使にラヴ・ソングを』のように尼僧がゴスペルを歌ったり、ボレロのリズムを効かせたり、ドヴォルザークの交響曲『新世界より』の第2楽章(家路)が挟まれたりと、小技は使っているが、どれもこれも小技に過ぎず、驚きとともに心に刻まれるような音楽がない。オペラとして、これはいかがなものであろうか。

筆者が新潮文庫『新編 銀河鉄道の夜』で確認した宮沢賢治の第4稿(以下、「原作」と表記)と今回の北村想による「想稿」ではかなり違いがある。まず、想稿の冒頭でカムパネルラと「宮沢先生」が「ほんとうのこと」についての問答をする場面は原作にはない。銀河鉄道に乗ってくる尼僧も原作には登場しない。大学士の役割は原作よりかなり重くなっている。web上で読める想稿http://suiseidou.cool.coocan.jp/archive/index.html では熊を撃つ人という人物が登場するが、今回の上演ではこの人物は登場せず、逆に原作で登場してweb上の想稿では登場しない鳥を捕る人が今回の上演では登場した。
また、原作と想稿で大きく違うのは想稿では冒頭からカムパネルラが「ほんとうのこととはなにか」を問い続けるのだが、原作では「ほんとうのこと」についてのこのような言及は少ない。しかしプログラムの大石哲史の言によると宮沢の第3稿以前ではこの「ほんとうのこと」について字数が使われているようであり、今回の北村の想稿で彼が主張したかったのはこの「ほんとうのこととはなにか」ということなのであろう。尼僧に宗教における「ほんとうのこと」を述べさせ、大学士に学問における「ほんとうのこと」を述べさせ、そして観客に「ほんとうのこと」について問いかけるのが原作にはない北村の想稿の意図だったと思われる。
だが、この「ほんとうのこと」についての宮沢・北村の思想・哲学的含蓄に対して舞台上で表現されたものの印象は希薄であった。普通の芝居ではなく、オペラであるからこそ、音楽によって思想が強く刻印されるはずであるのだが、そうならなかった。

今回の舞台は「歌劇としての」ドラマトゥルギーが弱く、無難すぎたのである。こんにゃく座らしい室内オペラとして確かに一つの姿にまとまっているのだが、その先に「過剰」と「不足」を筆者としては求めたかった。もっと訴えかけてくれ、もっと歌っておくれ、と思わざるを得なかった。表現の弱さに観劇中は気づかなかったのだからこれはこれで1つの解法だったのかもしれないが、しかしやはり物足りなさを感じてしまったのが事実である。