チョ・ソンジン ピアノ・リサイタル|藤原聡
チョ・ソンジン ピアノ・リサイタル
2017年1月17日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<曲目>
ベルク:ピアノ・ソナタ ロ短調 Op.1
シューベルト:ピアノ・ソナタ第19番 ハ短調 D958
ショパン:24の前奏曲 Op.28
(アンコール)
ドビュッシー:『ベルガマスク組曲』~月の光
ショパン:バラード第1番 ト短調 Op.23
同:ポロネーズ第6番 変イ長調 Op.53『英雄』
ほぼ未体験に等しかったが故に、その驚きは非常に大きかった。末恐ろしい才能である。チョ・ソンジン、2015年に行われた第17回ショパンコンクールの覇者。それ以前の2009年には第7回浜松ピアノ・コンクールで史上最年少優勝。こういった情報は事前に念頭にあったとは言え、正直に記すならば「ああ、複数のコンクールの優勝者ね。また〈天才〉ですか…」ほどのやや斜に構えた気持ちで本リサイタルに臨んだのだった。既にこのピアニストの大器ぶりは轟き渡っており、曲がりなりにも筆者もそのことは把握していたのに、なぜ積極的に聴こうという気にならなかったのだろうか。単にあまのじゃく、ということか。
前置きはともかく、1曲目のベルクから、もう違う。極めて濃厚な情念の沈滞。響きも驚くほどに深く、スケールも大きい。ベルク自身ですら当曲からこのような響きを引き出した演奏を想像できただろうか。この演奏に比べれば、他の演奏が普通に流して弾いているだけのように聴こえる、と言っても言い過ぎではあるまい。と言っても、テンポが非常に遅いとか表情を大げさに誇張して聴かせているわけでは全くない。1つ1つの楽想の掘り下げが尋常ではないので、造形自体はオーソドックスながら違って聴こえるのではないか。濃密、の一語だ。
既にチョ・ソンジンの力量に唸らされた後にはシューベルト。終楽章のように快速な部分は大いに疾走しながらも、そのニュアンスの細やかさと多彩さが際立ち、そのために非常に多層的な感情が楽曲に封じ込められる。まだ22歳のピアニストがこのような演奏をしてしまえる事が凄い。そして、第1楽章の第2主題や第2楽章などの緩徐な部分では沈み込んで行くような陰鬱さがたまらない。ベルクで既に感じたことだが、このピアニストは一体に緩やかな箇所での思索性と静謐さの表出に優れ、そういう箇所に来るとガラッと「空気」が変わる(抽象的な表現であるが、まさにそういう印象なのだ)。これ自体他のピアニストからなかなか聴けないチョ・ソンジンの個性と思う。
休憩を挟んでショパンの『24の前奏曲』も驚異的。ここまで1曲1曲の違いを明確に表現し尽くし、幅広い感情の広がりを手中に収め、かつ全体を一筆書きのように持続する意識の流れでもって聴かせた演奏もなかなか思い浮かばない。ことに、有名な第15番(いわゆる『雨だれ』)から終曲までは圧巻であったが、全24曲中でも最も印象に残ったのは第17番、特にその後半。幽玄、とすら形容できる独特の静けさに満ちた表現で、ここでこういう印象を受けたことは過去ない。最後の第24曲は凄絶な表現だったが、あの有名な最後のD音連打は「コツン!」という音が大きく聴こえ、ここは実際に拳で打鍵していたようだ(尚、この演奏が余りに見事だったゆえ、2015年のショパンコンクール時の同曲ライヴ盤もこの後に慌てて聴いてみたが、こちらも非常に良いものであったが当夜の演奏はそれよりも数段表現の幅が広がっていたことにまたしても驚いた)。
アンコールは3曲。ドビュッシーはいわゆる「印象派」もしくは「象徴主義」のイメージには収まらない、音色の細やかなグラデーションで聴かせるよりももっと肉感的かつ実在的な音を聴かせてユニークであったし、2曲目の『英雄ポロネーズ』では――ピアニストが弾き始めた途端に歓声が沸くという異例さだ――、抑制された上品な表現に特徴があり、さらにこの演奏を特別なものにしていたのは中間部のオクターヴ連打後から主部再現に至るまでの悲しみと暗さに満ちた表現ではなかったか。この箇所の悲哀をこのように表現したピアニストもまた稀有であっただろう。ここで終わりかと思われたアンコールでは、最後に『バラード第1番』。褒めてばかりであるが、冒頭スケールの何という大きな呼吸と深さ。これ以上は細かく記さぬが、これもまた滅多に聴くことのできない奏楽(古風な言い方だ)である。ツィメルマンの名演に匹敵するか、あるいはそれすら超えている。
ある種の特別な才能の持ち主、神に祝福された存在に対し、「若干22歳で…」などと驚いてみせても意味はなかろう。チョ・ソンジン、これから可能な限りその演奏を追って行かねばなるまい。