パリ・東京雑感|絵本の救済力|松浦茂長
絵本の救済力
text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
柳田邦男さんの『大人の気づき、子どもの成長~絵本は心育てのバイブル~』という講演を聞きに行った。航空機事故とか脳死とか深刻なテーマを取り上げる作家が、なぜ<絵本>?と興味をそそられたからなのだが、柳田さん開口一番「日本の子供は危機です」と言うのでピンときた。実は僕も「東京の子がパリの子に比べ笑顔が少ないのはなぜだろう?」と常々疑問に思っていたので、「子供の危機」という一言に「やっぱり」とうなずいたのである。
たとえば、パリの公園で子供たちのジャングルジムにぶら下がって懸垂運動すると、子供たちは目を丸くして「おじさんすごーい」と真似を始める。杉並の公園で同じことをすると、子供たちは怪訝な顔をして、中には「ヘンなおじさんが来た」と親に報告に行くのもいる。確かに子供の遊具に闖入する大人は「ヘンなおじさん」だから、日本の子の反応の方が正しいに違いないけれど、見知らぬ外国人の大人にまでニコニコして仲間扱いするフランスの子にくらべ、幸せとはいえまい。
何が子供の<危機>をもたらしたのだろう。柳田さんは親が子供の顔をしっかり見なくなったことに注目し、ある小児科医の報告を紹介してくれた。都内の総合病院の母子サービス施設を覗いたところ、「十人ほどの若い母親たちが赤ちゃんに授乳していた。ところが、どの母親も母乳を吸う赤ちゃんの顔を見ていない。それどころか、他の母親と会話もしていない。ひっそりとしている。何をしているのかと見ると、全員が黙々とケータイでメールの確認や打ち込みをしていたのだ」そうだ。
そういえば、パリの親子は片時も対話をやめない。毎朝子供を抱いて我が家の前を通るお父さんは、何時見てもわが子に向かって真剣に話しかけている。プールに行くと、あちこちから上機嫌で親と対話する子供の声が聞こえてくる。親にしっかり見つめられ、守られている安心感があるから、他人にも愛想よく接することができるのだろうか。フランスの濃厚な親子の接し方、そしていつも上機嫌な子供の顔を思い出すと、日本の子供の<危機>の原因を親子の接触の希薄化に見出そうとする柳田さんの説に一理ありそうに思えてくる。
子供の<危機>という診断に対し、柳田さんが処方箋として示したのが<絵本>である。親が心を込めて絵本を読んでやると、子供の感情も同じように動いていくし、子供は物語を聞きながら、ここで泣いていいのかな、ここで怒っていいのかな、と真剣に親の顔を見詰めるそうだ。物語の展開に子供の心が同一化する体験が子供を変え、学校の問題児が落ち着いた勉強家になったりする。絵本運動を展開してきた柳田さんのもとには、お母さん方からのたくさんの手紙が寄せられるが、たとえば「以前はガミガミ言っていた私ですが、絵本を読んであげている時の息子、娘を見ていると、真剣に楽しんでいます。そして、怒っても聞かなかった子供が、いとも簡単に素直な子へ。そうそう、大人も絵本から大事な事を教えられる…と痛感しました。」と、絵本の効用をフィードバックしてくる内容も多いようだ。
さらに柳田さんは、弟を亡くして落ち込んだ中学生が、幼い時読んだ絵本の物語を思い出したために立ち直れた例、大好きなおじいさんを亡くした幼児が、絵本を通じて死を受け入れることができた例を話してくれた。絵本は子供を人生の危機から救うのである。
どうやら絵本には信じられないほどのパワーがあるらしい。もう一つ、絵本の驚異を教えてくれる証言を聞いた。シャンティ国際ボランティア会の設立35周年イベント『本の力を生きる力に』で講演した二人の女性。エレガントな民族衣装をまとったスニターさんはいまラオス国営放送の人気キャスターだが、子供時代はラオス難民としてタイのスラムで暮らした。「しばしば食べるものがないので、お母さんに“どうしよう”と言うと、“外には食べるものがある。外に出て食べ物を獲得する力を持つのよ。強くならなくては”と教えられました」と回想するとき、凛とした声が一瞬くぐもった。つらい毎日の思い出が噴出したのだろう。そんな毎日に耐える勇気を与え、将来への大きな夢を与えてくれたのがシャンティの図書館だった。「もし私が図書館に足を向けなかったら、今の私はいなかった」とスニターさんは言う。
もう一人のオラタイさんもスラムから、国費でモスクワに留学し、外交官になり、タイ首相とプーチン大統領の通訳をするほどになった頑張り屋さんだ。オラタイさんのお父さんはアル中で家族との争いが絶えず、姉さんたちは家から逃げ出した。「でも私はとどまり、本に出会った」と言う。7歳のときのことだ。朝4時半に起きて母の商売の手伝いをしてから学校に行き、帰ってからも一家の衣類の洗濯など夜まで働く毎日だったが、シャンティの図書館で過ごす週末のひと時は、彼女にとってかけがえのないサンクチュアリであり、本が想像力を開くカギだった。
情緒不安定な問題児を優等生に変え、スラムの少女に貧困から脱出する希望と勇気を与える絵本のパワー、その治癒力と解放力の正体は何だ。
自分でも奇妙な気がするのだが、60歳を越えたころから<物語>というものの存在がひどく気になりだした。人間には理性、感性のほかに、<物語>をキャッチする固有の能力が備わっているのではないか、それは<夢>の能力とも通底し、魂の深層に達する広大な領域を占めているのではないか。いやそんな大げさな仮説より、まず不思議に思ったのは、夕食後テレビを見ていて、ドキュメンタリーだとどんな傑作でも、ときどき居眠りするのを避けられないのに、劇映画だとどんな駄作でも居眠りしないことだ。
なぜだろう。たとえばベルリンの壁崩壊の真相のような、僕にとって知的には最高に興奮させられるドキュメンタリーでさえ、時々意識が途絶えるのを避けられない。それなのに、ありふれたロマンスを居眠りせずに終わりまで見ることができるのは実にヘンだ。それはストーリーが理性や感性とは別の、ヒトの<物語受容力>みたいな能力に直接働きかけているから、そして<物語受容力>は理性や感性より敏感で強力だからではないか。要するに、人間は<物語>向きにできている。
「ヒトはなぜ死ぬのか?」「不死を獲得することは出来ないのか?」この人類の根源的な問いが、すでに5000年前の『ギルガメシュ叙事詩』の主題になっているし、『聖書』のアダムとイブやヨブ、古代ギリシャの『エディプス王』等々、人類は物語とともに生まれ、物語によって人生の大問題に取り組んできたと言っても過言ではない。だからユング、河合隼雄のように神話や昔話を手掛かりに人間の心の意識下の謎にいどむ冒険が可能なのだ。
昔話は不思議だ。寝る前に横になって昔話や童話を読むと、たちまち眠くなる。ロンドンで暮らしたとき、私道をはさんで向かいの家の子供部屋が良く見えた。6時半になると外交官のパパが子供部屋に入って来る。2人の男の子はベッドの上でぴょんぴょん飛び跳ねて興奮するが、パパの絵本の朗読を聞くうちに催眠術にかかったみたいに眠りにおちた。テレビでドラマや映画を見ると居眠りしないし、ベッドで小説を読むと頭がさえて寝付けなくなる危険があるのに、グリムや瘤取り爺さんやアンデルセンや宮沢賢治を読むと睡眠薬みたいに瞼が重くなる。それは恐らく神話・昔ばなし・童話の<物語>が小説のように現象世界を語るのではなく、現象の奥の見えないものを語ろうとしているから、むしろ<夢>に近い語りだからではないだろうか。
グリム童話の中の、親が娘の手を切り落とす『手なし娘』の話は一度読むとあまりの怖さにイメージが記憶に焼き付いてしまうが、日本の昔話を読んできて、そっくりの『手なし娘』に出会ったときは息が詰まるほどの恐怖だった。太古から人間の心の奥底に『手なし娘』の原型が刻み込まれていて、それは夢となって現れたり、世界のあちこちで民話や童話となって現れたりするのだ。そしてその物語を読むことによって、ヒトはきっと無意識界の苦悩から癒され救われるのだと思う。
ところでシャンティのイベントを司会した八木澤克昌さんは26年前からバンコクのスラムに住み着いてオラタイさんたちの成長を見守ってきた方だが、22年前、一時帰国した際こんな感想を述べている。
「電車に乗っている若い人たちが、みんな今にも死にそうな、眠そうな顔をしている…世界中でこんな国は他にない…タイでは、お腹の大きい女性や小さな子供を抱えて大変そうな人が乗って来ると、座っている人が反射的に立つ。それも日本ではめったにない。難民救済とかかわいそうな人たちの救済・支援といいますが、むしろ救われなければならないのは日本の方ではないかなっていう感じがするんですよね。」
僕もパリから戻るたびに同じことを感じる。東京の子供たちは四半世紀前からこの精神の荒野に育って来たのだとすると、笑顔が少ないのは当然かもしれない。<本の力=生きる力>が一番必要なのは日本の子供たちだ。