イーヴォ・ポゴレリッチ ピアノ・リサイタル|藤原聡
2016年12月10日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<曲目>
ショパン:バラード第2番 ヘ長調 op.38
同:スケルツォ第3番 嬰ハ短調 op.39
シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化 op.26
モーツァルト:幻想曲 ハ短調 K.475
ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.36(改訂版)
(アンコール)
シベリウス:悲しきワルツ op.44
ここ最近のポゴレリッチの来日は12月、が半ば定例化しているようである。また、療養期間を経て6年ぶりに来日公演を行なった2005年以降では、来日しても1度しかリサイタルを行なわなかった年もあったが、今回は4回のコンサートがもたれる(うち1回は協奏曲のソリスト)。そのうちのサントリーホール公演を聴いた。
最初のショパンの『バラード第2番』。最初のゆったりしたコラール風楽想でのテンポは、遅くはあるものの思いの他平均的な演奏に近い。その中での繊細な音量変化とルバートの使い方には、こう言ってよければ「復活前の」ポゴレリッチの演奏を彷彿とさせるものがあった。非常に美しい。復活後の何回かの来日公演においては、あまりに常軌を逸した遅いテンポと楽譜の指定を大きく逸脱した強弱などによって、一体何の曲を弾いているのかすら分からないような異常な世界が現出していた(むろんそこには弾いている当人にとっての必然性はあるのだろうが…)。細部ばかりが突出して耳に付き、その全体像がまるで把握できない。それに比べれば、今回のこのいくらかのテンポの遅さにはその「必然性」が――細やかなニュアンスをていねいに汲み尽くすためだろう――聴き手にも感知できるものとなっているのだ。この「復調」傾向はここ何回かの公演に明らかに現れているが、今回はさらに顕著。プレスト・コン・フォーコの第2主題では第1主題とのテンポ的な対比があまり生まれず、その意味ではいささかの物足りなさがあったとは言え、この巨大な音楽にはひたすら圧倒される他ない。
続く『スケルツォ第3番』では、テンポだけを取ればバラードよりもさらに標準的なものになっている。オクターヴで奏される第1主題の強靭な響きと例の「すだれ」の箇所の密やかな響きとの対比(こういう「対比」の効果を最近のポゴレリッチの演奏から感じることはほぼなかった気がする)、コーダの厚みのある和音連打。推進力とポゴレリッチらしい個性が見事に融和している印象だ。
しかし、前半最後のシューマンでは、その迫力には唖然としながらも若干の疑問符が付く。あっさり言ってしまえばあまりに「鳴らし過ぎ」なのだ。殊に左手のバス声部が強力過ぎるため――この音自体はある種の麻薬的な魅力を湛える。その深い打鍵による地に突き刺さるかのような強靭さと恐らくは倍音成分によるのだろう、空間的な拡がりが「見える」のだ――、上声部をマスキングしてしまって曲の構造がよく分からなくなる。それをも含めたポゴレリッチの魅力を認めるにやぶさかではないが、「復活前」からこのピアニストの来日公演をかなりの回数聴いている筆者としては、この粒立ちの悪さと混濁は以前にはなかったものだ、と言わざるを得ない。
休憩後のモーツァルトは、これもよく耳にする平均的な世界からは想像の付かない、しかし圧倒的な世界を垣間見させてくれた演奏。ここでもテンポは遅く、1つ1つの音のニュアンスを吟味しながらていねいに弾き進めて行くが、それがモーツァルトの古典的世界を大きく逸脱し、マニエリスティック=裏返しの現代性の露呈、という様相を呈していた。元来このハ短調の曲には当時の平均的な感情表現を踏み越えた要素がある訳で、このポゴレリッチの解釈は、かつて聴いたことのないものでありながら説得力がある。
最後はラフマニノフ。この曲は何回か前の来日公演でも弾いているが、今回はそれよりも相当テンポが速く、推進力と覇気に満ちていた。とは言えポゴレリッチ流の「彼岸の音楽」とでも言いたくなるような沈滞はここでも聴かれ、第2楽章ではさながら異界に連れ去られるかのごとく。もはや異次元の音楽と言うしかない。反面、終楽章の「安定した暴走」の迫力は尋常ではなく、全曲を通してのテンポと感情の振幅の大きさは果たして1人のピアニストの奏でる音楽なのか、とすら思う。恐らくは作曲者のラフマニノフですらこのピアノ・ソナタ第2番がこのように弾かれるなど、全く思いもしなかったことだろう。これもまた、ポゴレリッチの個性(なんて生易しい言葉では表現できるものではないが)と現代性の賜物。
ポゴレリッチはイメージに反して(?)アンコールをよく弾くのだが、この日はポゴレリッチ自身からアナウンスがあり(これ自体が異例のことだ)、シベリウスの『悲しきワルツ』が演奏された。疑いなく当夜の白眉。これもまた今まで聴いたことのないような演奏であり、ここでポゴレリッチの設定したテンポは極めて遅く、時間感覚は完全に崩壊する。時間感覚が崩壊する、ということ、それは「永遠」を知覚するということ。実際にはそんなことは不可能だし、錯覚に過ぎない。しかし、極言すればあらゆる芸術は永遠を欲しているのではないか。この演奏は、ピアニストの解釈やコンディションがどうだとか、もっと言うならば作曲者のシベリウスすら超越して音楽と芸術の根源にまで想いを巡らせるようなものとなっていた。大げさな物言いと思われようが、少なくとも筆者にとってはそうだった。
ポゴレリッチの演奏はしばしば「個性的」と形容される(筆者も上でそう書いた)。その個性的なるものが極められているがゆえに、それが芸術の普遍的な本質にまで到達しているのではないか、とアンコールを聴くに及んで考えた。となれば、それは矮小な「個」を遥かに飛び越えているということだ。つまり、「個性的ではない」(と言うよりも、個性的/没個性的、という枠組み自体が意味を成さない)。こういう観点から改めて今後のポゴレリッチを聴いてみる。表層だけではポゴレリッチの本質は掴めない気がしている。