folios critiques ⑧|わが音楽の街 郡山|船山隆
folios critiques ⑧
わが音楽の街 郡山
text by 船山隆(Takashi Funayama)
私の生まれ育った郡山市ではなぜか1月に《第九》の会が開かれる。〈郡山市民オーケストラ〉、〈みんなで歌う第九の会〉を下野竜也が振るのである。その「楽都郡山」の《第九》のコンサートのパンフレットに、「わが音楽の街郡山」を寄稿したので、それを本誌でも紹介したい。
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いささか旧聞に属する話であるが、昨年の10月16日、サントリーホールで、郡山市内中高生合同オーケストラ、合唱団、ウィーン・フィルのメンバーによるベートーヴェンの《第九交響曲》が演奏された。指揮は今最も注目を集めている山田和樹で、郡山の子供たちもウィーン・フィルのメンバーも文字通りの力演。私の隣席のチェリストでサントリーホール館長の堤剛は、大声で「ブラヴォー!」を連呼していた。
このような大胆な企画の音楽祭が開催されるようになったのは、2011年の東日本大震災に対する復興支援としてウィーン・フィルとサントリーが音楽事業を開始したためである。《第九》の第4楽章のみの演奏であったが、郡山市内の中高生でオーケストラを編成することは、〈合唱コンクール〉で名声の高い街でも、大コーラスの組織や練習はかなり困難な作業であったと思う。
ウィーン・フィルのメンバーは東北新幹線に飛び乗って現地でのリハーサルを行ったらしい。裏方を務めた郡山市側の対応も大変だったと思うが、強力な郡山の音楽オルガナイザーの一人、佐藤守廣の尽力は特筆に値するだろう。
私はこの郡山の子供たちの演奏会を聴いて、自分がほぼ同じ年代に、郡山で、音楽の道を歩きはじめた頃を思い出し、感慨無量の複雑な気持ちに捉えられた。そう、あれはもう60年以上も前のこと。まだ飛行場の跡地に麦畑が広がり、のどかにヒバリがさえずっていた頃の話である。
音楽教師だった母親の影響で幼い頃からピアノを学びはじめた私は、高校のはじめ頃から漠然と音楽家になろうと考えはじめた。私の在籍していた安積高校の音楽教師に、藝大で委託生として学んだ古関斉先生がいた。歌とチェロを弾くこの通称〈山ザル〉からの影響もあったと思う。
今回の〈第九を歌う会〉会長の作田秀二は安高時代の同級生であり、〈山ザル〉の歌に感銘を受け、大学時代にコーラス部で合唱を続け今日に至っている。古関先生が高校の近くの下宿の書斎を私のために開放して下さったことは忘れ難い思い出である。
しかし全体としては、藝大進学のためのガイドはほとんどなく、私は高校2年生の時から夜行列車に乗って、東京の先生のところに通いはじめた。
当時の私に決定的に不足していたのは音楽に関する基本的な技術と情報であった。その頃の郡山には、駅前と桜通りの入口に2軒の小さな楽器店があって、注文すれば楽譜その他は入手できたけれども、音楽書は皆無の状態だった。
安高の図書室になぜか月刊雑誌の《音楽の友》が置いてあり、アップデートな情報を得るのに大いに役立った。
そう云えば音楽評論家村田武雄のぶ厚い文庫本の《音楽芸術論》の在庫もあり、音楽についての文章を書く上で大きな影響を与えられた。
東京の音楽理論の先生にアインシュタインの英文の《音楽史》を購入するように奨められて、銀座の楽器店ヤマハに行った時、あらゆる種類の楽譜や音楽書がズラリと並んでいる様子に圧倒されたことをよく覚えている。
しかし郡山に音楽活動が皆無だったのではなく、「楽都郡山誕生」への胎動が確実に感じられるようだったのも1950年時代から1960年代のはじめだったと思う。まず第一には49年4月に結成された国鉄郡山工場男声合唱団の活躍をあげるべきであろう。
この団体は各種の合唱団の合唱コンクールに入賞し、鈴木武司指揮による演奏は、〈力強く走る機関車〉のようだと絶賛され、1967年の時点で50名の団員数を数えた。
私事にわたるが、高校時代の私は、この合唱団の伴奏ピアニストとしてステージに立ったことがある。肝心な演奏曲目は忘れてしまったが、生まれて初めてもらった花束をよく覚えている。
国鉄郡山男声合唱団は、同じ時期に活躍した郡山ローリング混声合唱団(安積女子高の在学生を含む)とともに、今日の郡山市の合唱団の基盤を作ったと評することができる。
当時の郡山市民たちの間でよく口にされていたのは、〈東北のシカゴ〉から〈東北のウィーン〉へというスローガンであった。
合唱界のできごとと並んで、〈労音〉の存在と活躍があったことは、今日郡山市民の間でもほとんど忘れ去られている。〈労音〉とは音楽鑑賞のための全国的な組織で、正式には〈勤労者音楽協議会連絡会議〉である。主にクラシックを対象として、〈良い音楽を安く多くの人に〉をモットーにしていた。
郡山労音の発足は1959年で、前年に新築されたばかりの市民会館の事務局長の今泉正顕が陣頭指揮にあたり、あっという間に会員は6000人を数え、その後20年間に約700回のコンサートを開催することになった。
労音は、大阪で発足し、京都、神戸、西宮、和歌山、東京と拡大したが、郡山労音の6000名という会員数は、人口比率では日本一だったという。
私も高校3年生の時に何度か労音のコンサートに通い、毎回機関誌に音楽批評のような文章を投稿したが、一度も掲載されずに無視された。そのかわり安積高校の校誌〈安積野〉(復刊75号、1960年4月)に〈現代音楽について〉という文章が掲載された。
労音の会員数は、主に音楽的な問題から減少し続け、ほとんど意味のない組織になってしまっている。
冒頭の郡山市内中高生とウィーン・フィルの《第九》に話を戻そう。今日の郡山市の音楽少年と音楽少女たちは、半世紀前の私どもの世代に比べて、音楽の技術も情報も桁違いに豊かなものになっているし、教育委員会や文化課のサポートも考えられないほど手厚なものになっている。
では、〈東北のシカゴ〉は〈東北のウィーン〉に数歩でも近づいたのだろうか。もちろん解答は否である。もともと約半世紀前の郡山市の音楽家や文化人が作り出した〈東北のウィーン〉という命題そのものが、決して実現できないテーゼなのである。
ウィーンはウィーンで、他の都市が決して模倣できない音楽都市なのである。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの第一次ウィーン楽派があり、シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンの第二次ウィーン楽派が続く。これらの天才作曲家たちが何世紀かにわたり長い伝統の凄絶な闘いを経て作り上げた音楽の都市空間なのである。
ここでウィーン音楽史をひもといている余裕はないが、一つだけ読者の注意をひいておきたいことがある。ウィーンで活躍した音楽家には生粋のウィーン人がいないという点である。ハイドンはローラウの、モーツァルトはザルツブルクの、ベートーヴェンはボンの、ブルックナーはリンツの、ブラームスはハンブルクの、マーラーはボヘミアの出身で、正真正銘のウィーンっ子に見えるシューベルトでさえチェコの血統だったのである。
音楽の都ウィーンは一筋縄では捉えられないのである。
私は〈東北のウィーン〉という半世紀前のキャッチフレーズは、もう取りさげた方がいいと思う。楽都郡山の方がわかり易いが、しかし楽都郡山というにはあまりに近い位置に別の音楽都市がある。水郡線でつながっているユニークな芸術館をもつ水戸市、オーケストラからオペラまで多角的な音楽活動を展開している仙台市・・・。郡山市はウィーンではなく、水戸市と仙台市をまず目標にすえるべきだと思う。
この困難な道を、今日の475人の郡山市民の合唱団の方々、それと83人のオーケストラのメンバーの方々とともに考え、模索してみたい。苦悩からは歓びの光が見えて来るだろうか。
20世紀後半のイタリアの作曲家ルイジ・ノーノは、次のような2つの作品を残しているので、その作品のタイトルを結論にかえて掲載しておきたい。
《進まなければならない、夢みながら》《進むべき道はない、だが進まなければならない》
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船山隆(Takashi Funayama)
福島県郡山生まれ。東京藝大卒、パリ第8大学博士コース中退。1984年より東京藝大教授、2009年同名誉教授。2014年より郡山フロンティア大使。1985年『ストラヴィンスキー』でサントリー学芸賞受賞。1986年芸術選奨文部大臣新人賞受賞。1988年仏の芸術文化勲章シュヴァリエ受賞。1991年有馬賞受賞。東京の夏音楽祭、津山国際総合音楽祭、武満徹パリ響きの海音楽祭などの音楽監督をつとめる。日本フィルハーモニー交響楽団理事、サントリー音楽財団理事、京都賞選考委員、高松宮妃殿下世界文化賞選考委員を歴任。