Pick Up(16/12/15)|アンジェイ・ワイダの「親密さ」| noirse

アンジェイ・ワイダの「親密さ」

text by noirse

去る10月9日、アンジェイ・ワイダが亡くなった。

地下水道

地下水道

ワイダ(1926~2016)は、ポーランドの「国民作家」とでも呼べる存在だった。20代後半の若さでデビュー作『世代』(1956)を撮り上げ、続く『地下水道』(1957)、『灰とダイヤモンド』(1958)の「抵抗三部作」で、世界中に衝撃を与えた。その後コンスタントに作品製作を続け、『カティンの森』(2007)などで自国の政治問題や歴史的事件を扱い、ポーランド文学史上の記念碑的作品『パン・タデウシュ物語』の映画化にも務めた。ワイダが名実ともにポーランド最大の映画監督であることは言を待たない。

だが、少なくとも日本では、今でもワイダに人気があるとは言い難い。30本以上に渡るワイダ作品中、新品で入手可能な映像ソフトは10本前後しかない。ワイダのように、真面目に自国の歴史や問題に向き合い、演出していくタイプは、現在の観客には避けられてしまうのだろう。
その気持ちは分からないでもない。しかしもしワイダに「大時代的で真面目な社会派リアリズムの監督」というイメージのみを抱いているのならば、それは少々事情が異なる。

大雑把に言えば、戦前までのほとんどの映画は、メロドラマや喜劇、文芸映画やサスペンスなど、いわゆる「ジャンル映画」の枠組みから離れることは難しかった。膨大な予算がかかる映画製作は、どうしても大手の映画会社やスタジオに所属せざるを得ない。圧倒的多数の作品が、セットの中で、プロの俳優を使って製作された。
戦後すぐのイタリアで巻き起こった「ネオリアリズモ」の監督たちは、その慣習を覆した。彼らはスタジオを飛び出し、戦争の傷跡も生々しいローマで、時には素人を役者に起用して、戦後を生きる市井の人間たちを活写、映画のありかたを一新した。
だが、現実の過酷さを突き付けるだけでは、興行的に厳しくなるのは必至だし、若者の心までは掴めない。ネオリアリズモの登場から約10年後、その精神を受け継いだ「ヌーベルバーグ」の監督たちは、あるがままのパリをカメラに収め、挑発的かつ実験的な演出で、映画の可能性を拡張し、同時に若い観客の心を掴むことに成功した。
成功の理由は様々だが、見過ごしてはならないのは、彼らが「小さな世界」を描くことにこだわった点だ。ヌーベルバーグの監督たちは、たとえジャンル映画であっても、人物にそっと寄り添い、言葉にならない苦悩や、些細な心の行き違い、小さな息遣いまで感じられるような、身近で親密な世界を、フィルムに焼き付けることに注力した。
ネオリアリズモ運動は、革命ではあったかもしれないが、ユース・カルチャーとは言い難い。ヌーベルバーグには、若い観客に「この映画はわたしたち自身を描いている」と思わせる要素があった。映画を「自分たちの文化」へ奪取したのだ。

灰とダイヤモンド

灰とダイヤモンド

だが、ヌーベルバーグよりも先に、ユース・カルチャーと言える映画を作った者も、わずかだが存在する。そのひとりが、ワイダだ。
『灰とダイヤモンド』も「ネオリアリズモ以降」に連なる作品なのは間違いないが、主役を務めたズビグニエフ・チブルスキーのサングラスを小粋にひっかけた不良めいた姿は、『無防備都市』や『自転車泥棒』にはない鮮烈さを観客にもたらした。
アメリカでも当時、ジェームス・ディーンやマーロン・ブランドなど、フィフティーズの不良文化の象徴となった、新しい世代の俳優はいた。しかし彼らを監督・演出したのは、中年以上の、若者から見れば「老人たち」だ。『理由なき反抗』や『波止場』は、名作かもしれないが、そこに映し出される若者や不良は、ハリウッドの「老人たち」の目線から都合よく描かれた虚像に過ぎない。
同時期にデビューしたエルヴィス・プレスリーこそ、初のユース・カルチャーの体現者と位置付ける向きは多い(エルヴィス以前の音楽界には、シナトラやロイ・ロジャースのような歌手しかいなかった)。映画のフィールドで、それを真に可能にしたのは、当時30代に入ったばかりのワイダとチブルスキーのコンビだったのではないか。

その後ワイダは、しばしば個人的な題材の映画を手掛けるようになった。たとえば『夜の終わりに』(1960)は、若い男女の出会いを、ひと晩の限られた時間の中で描いた、いわゆる「ボーイ・ミーツ・ガール」+「ワン・ナイト・スタンド」ものだ。真夜中のワルシャワの濃厚な雰囲気、ポーランド・ジャズの大物クシシュトフ・コメダの洒脱な音楽には、現在の映画ファンにも訴える「親密さ」が備わっており、ワイダがヌーベルバーグと同時代の作家であることを再認識させてくれる。
そう、実際のところ、ヌーベルバーグと、ワイダや、彼が中心となった「ポーランド派」の登場のあいだには、そこまでの時間の開きはない。だが、歴史を追っていく場合、時間軸だけで物事を判断するには注意が必要となる。重要なのは、ワイダたちは(当然だが)ポーランド人だったという点だ。

ソ連軍の支配下にあった当時のポーランドは、「西側」の映画を自由に見ることのできる環境にはなかった。ネオリアリズモ作品も大半は規制されており、パリのシネマテークで映画三昧にふけっていたヌーベルバーグの監督たちとは、その点でまったく条件が違う。当時のポーランドの映画人の中には、ソ連軍に処刑された者も存在する。
『夜の終わりに』に「ヌーベルバーグらしさ」を感じたとしても、資本主義の氾濫の中、ポップに政治や恋愛を語ったパリの監督たちと、ソ連の監視下で「個」を訴えるワイダのそれとでは、内実が大きく異なる。鉄のカーテンに閉ざされた最悪の状況下で、ワイダは、「歴史」に抵抗する「個人」という主題に、人一倍こだわった。だからこそ、世界の誰よりも早く、映画から「個」をえぐり出すことに成功したのかもいしれない。

ただし、ワイダ自身は、『夜の終わりに』の出来には満足していなかった。そもそも「個人的」な映画を作り続けること自体に疑問を感じたようで、その後ふたたび「ポーランドの問題」に立ち返っていく。「歴史」と「個」のせめぎあいが生む緊張感も、カンヌで高く評価された『大理石の男』(1977)以降、次第に後退し、「国民作家」然とした相貌へと変わっていく。しかし中期までの作品を見ていくと、ソ連の監視下の中、国家と個人のあいだで何が描けるのか、懸命に模索し、実践していったワイダの苦闘が、たしかに刻み込まれている。
後輩のロマン・ポランスキーやイエジー・スコリモフスキーは、ポーランドを脱し、作家色の強い、「個人的」な映画を作っていったが、ワイダはポーランドに留まり、その歴史を背負っていくことを選択した。おそらく彼にも別の生きかたがあり得たはずだが、ワイダは「ポーランド」を選んだのだ。

アメリカ大統領選挙で、予想に反してドナルド・トランプに投票した五大湖周辺の労働者には、ナチスやソ連に追われて渡米したポーランド移民が多い(イーストウッドが『グラン・トリノ』で演じた主人公もポーランド移民だ)。また、Brixitを果たした英国で、現在ひどく差別・排斥されているのは、やはりポーランド移民だという。
ポーランド人の苦難は、世界各国で未だ続いている。ワイダの映画を見返せば、たとえ50年前の作品だとしても、ポーランド人の戦いと心情が、未だにアクチュアルに浮上するだろう。そしてそれは、私たち自身の問題としても重なってくるはずだ。

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noirse
同人誌「ビンダー」、「セカンドアフター」にて、映画/アニメ批評を寄稿