サントリーホール30周年記念作曲委嘱 マーク=アンソニー・ターネジ:Hibiki|谷口昭弘
サントリーホール30周年記念作曲委嘱
マーク=アンソニー・ターネジ:Hibiki
2016年11月12日 サントリーホール
Reviewed by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
鈴木優人 (オルガン)
ミヒャエラ・カウネ (ソプラノ)
藤村実穂子 (メゾ・ソプラノ)
東京少年少女合唱隊
(児童合唱指揮:長谷川久恵)
大野和士指揮東京都交響楽団
<曲目>
芥川也寸志:《オルガンとオーケストラのための響》(1986)
(サントリーホール落成記念委嘱作品)
(休憩)
マーク=アンソニー・ターネジ:《Hibiki》 (2016)
(サントリーホール 30周年記念委嘱作品)(世界初演)
(アンコール)
ターネジ:《Hibiki》から<Suntory Dance>
1986年のサントリーホール落成記念として委嘱された芥川也寸志の《響》から。はじめはアンティーク・シンバルやハープなどの、か細い音の中で、聴き手は大ホールの音響特性に耳を傾け、作品の雰囲気に浸っていく。ところが突然強音によるクラスターが体を揺さぶったかと思うと、これに呼応するかのようにオルガンが華やかなトッカータ風で、あるいは轟音で迫ってくる。オルガンとオケの共演に続き、様々なパッセージがオスティナートに乗せて、キュビズム的に、ブロック構造が組み合わされたかのように進んでいく。オルガン独奏が帰り、今度はフルートとハープの音色による叙情的な部分となる。
冒頭のオルガンのトッカータ風パッセージが回帰すると、今度はファンファーレのような導きより新しいセクションに入るが、やがて猛々しい3拍子のオスティナートが現われ畳み掛け、圧倒的なC音のトゥッティで終結した。
不協和音を多用した芥川晩年の作品に、筆者はひとまず圧倒された。一方で、全体が明確な形式を備えており、「楽器」として作用する「音楽ホール」の特性を否が応でも感じさせる仕掛けに溢れていた。なるほどホール落成の機会作品として、こういう攻め方があってもよいだろう。舞台上のオーケストラ、オルガン、それらをパレットとして進める音のエネルギー。そして、サウンドそのものが持つ力をしっかりと構成し、提示した作品だった。
休憩を挟んで、メーンはターネジの《Hibiki》である。サントリーホール開館30周年という祝祭的な性格と東日本大震災の5年目にあたっての追悼と、両方を兼ねた作品を書くのは困難だったという。後方客席を30人弱の児童合唱に当て、舞台前方下手側にソプラノ、上手側にメゾ・ソプラノという配置である。
全体は7つの楽章からなり、第1曲 <Iwate> は「熱狂的な序曲」とされている。まずミュートをつけたトランペットとトロンボーン、リンのような音が複調的な、そして西洋の教会の鐘のような音の重なりを創り出す。スティール・ドラムが入り、すこしずつ盛り上がると、衝撃が走り、そして鐘の鳴らし合いが戻る。やがて相互の音色を補完して完成する「ホケトゥス」を経て、後半はシンコペーションが目立つジャズ風のスイング。指揮者の大野も時々足を踏みながら指揮をする。
第2曲 <Miyagi> の冒頭は、しんみりとした雰囲気作り。しかし何度か音の爆発が訪れる。これが起こる毎に音の厚みが増していく。ターネジはこれを「怒り」とする。最後に寒々とした沈黙があった。
第3曲 <Hashitte Iru>は、第二次大戦の空襲の中で逃げ惑う母と娘を描く宗左近の詩を英訳し、これをソプラノとメゾ・ソプラノが歌う。二重唱にはシンプルな模倣がエコーのように張り巡らされており、緊張感を持続する。また同じ言葉の繰り返しが多い歌詞は、急(せ)かすオーケストラの動きに直結し、危機と恐怖となって迫り来る。
第4曲 <Kira Kira Hikaru> は童謡《きらきら星》(英語)を新しく日本語訳した歌詞による児童合唱とオーケストラによる音楽。旋律には下行上行する反復音型が織り交ぜられており、日本語のイントネーションとして不自然なところは感じなかったものの、英語発音でうたわれているように聞こえた。マンドリンやハンドベルを交えて、敬虔さを醸し出す。
第5曲 <Suntory Dance> はリヒャルト・シュトラウスを想起させる重厚な出だしを経て、ウッドブロックと鈴によるアーロン・コープランド風のリズム、ライヒを思い起こさせるヴィブラフォンの音、ジョン・アダムズのような厚い管弦楽による反復音型など。決して軽くはないオケがグロテスクに踊る。残響の長いホールなので、どうしてもリズムが鈍く感じられてしまうが、楽天的ファンファーレも最後に飛び出した。
メゾ・ソプラノ独唱を伴う第6曲 <On the Water’s Surface> は近松門左衛門の『曽根崎心中』からの「道行」の場面を英訳したテクストによる。突き刺さるようなものはないものの、ターネジ自らが影響を認めるマーラーの清廉な孤独さ、深い別れの感覚がホールに響き渡った。
そして最終 第7曲の<Fukushima> は、とても居心地が悪い作品であった。児童合唱や女声の独唱陣は、ひたすら「フクシマ」という地名を繰り返すだけ。最初は Es-Ges-Es-Es と聞こえたが、次第にその音程は少しずつ変容していく。そして弔いのハンドベルが聞こえてくる…。それにしても、この居心地の悪さは何だろう。地名のイントネーションが不自然に反映された旋律が時折聞こえてきたからなのか、こんな「救い」のない物語でホール開館30周年を終わらせなければならないからなのか。あるいは、いま日本で最も考えなければならないテーマはこれなのか、日本人自身の手で「福島」を正面から捉えた作品がどうして書けないのか。あるいは私たちがもっと真剣に取り組みたい「福島」について、ここまでざっくりと切り込んでこられたことに対し、「そんな表面的な理解でいいのか」と思っているからなのか…。
作品全体としては、これも色彩豊かなオーケストレーションを駆使した機会音楽の一つだと割り切れば良いものかもしれない。しかし、結局いろいろな考えが頭をよぎり、悶々とした新作体験となった。アンコールにもう一度<サントリー・ダンス>を聴いた後も、その悶々とした感覚はなくならなかった。