柴田南雄生誕100年・没後20年記念演奏会|齋藤俊夫

%e6%9f%b4%e7%94%b0柴田南雄生誕100年・没後20年記念演奏会
山田和樹が次代につなぐ~ゆく河の流れは絶えずして~

2016年11月7日 サントリーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<主催>
柴田南雄生誕100年・没後20年記念演奏会実行委員会

<演奏>
日本フィルハーモニー交響楽団
東京混声合唱団(*)(**)
武蔵野音楽大学合唱団(*)(**)
合唱指揮:山田茂、栗山文昭、片山みゆき
尺八:関一郎(*)
舞台監督:深町達
指揮:山田和樹

<曲目>
(全て柴田南雄作曲)
「ディアフォニア」(1979)
「追分節考」(1973)(*)
交響曲「ゆく河の流れは絶えずして」(1975)(**)

最初に演奏された『ディアフォニア』は全3部に分かれた中の第1部冒頭の12音技法による主題からしてベルクの書法であり、第2部はその書法が不確定性の技法によっていかに拡大されるかの試み。山田・日フィルによるこの部分は実に挑戦的であり、第2部最後のクレシェンドの頂点では曰く言い難い高揚感に包まれた。第3部では陰鬱な音楽の中から突然ヴァイオリンによる輝かしい調べが現れ、そして様々なパートで断片的な音楽が奏でられ弦がグリッサンドをしてかき消える。不確定性の音楽を含みながらも後期ロマン派から表現主義の美意識で書かれた作品として聴いたが、作曲者の卓抜した知性は否が応でも感じさせられた。

実に約3000回演奏された可能性もあるという現代の古典『追分節考』については何を言っても愚かしいかもしれない。しかしもとより固定した楽譜のないシアター・ピースであるから当たり前と言えば当たり前であるが、何度聴いても(筆者は4回くらい舞台で聴いている)新しい発見がある。大ホールのそこここから聴こえてくる多層的な歌声や朗読の複雑な声が、それぞれが独立した声部でありながらホモフォニーやポリフォニーとは全く違った協和音を奏でる。どの部分も神秘的な美しさに満ちていたが、今回特に筆者が心動かされたのは中盤、女声だけで透き通った合唱がピアノの音量でほのかに歌われたかと思ったらその上から対照的に男声合唱がフォルテシモで力強く大胆に会場を埋め尽くした部分である。いつまでもこの響きの波の中にたゆたっていたいと思ったが始めあるもの終りありということで残念ながら終曲を迎えた。聴衆の喝采は本物の音楽に出会った喜びに満ちていた。

そして約60分の長大な交響曲『ゆく河の流れは絶えずして』、これは大変な傑作であった。曲は第1部と第2部にわかれ、第1部では主にオーケストラにより5楽章が演奏され、第2部では合唱を主として3楽章が演奏される。昭和50年を記念しての「昭和」をテーマとした交響曲というコンセプトにより、第1部第2楽章から第5楽章では、前古典派、ロマン派と戦前のポピュラー音楽のコラージュ、後期ロマン派、12音技法と不確定性の音楽、と、自分の生きてきた時代に合わせて音楽史をたどる、多様式主義を先取りした構成を取っている。第2部は鴨長明『方丈記』を合唱と朗読で聴かせるシアター・ピースである。

一聴してわかるのは、これが「危機の時代の音楽」だということだ。第1部では序章にあたる第1楽章を別として、第2楽章から音楽的不純物、音楽的不協和音が混じることによりいわく言い難い不吉な雰囲気を醸し出す。第2楽章では打楽器が前古典派の音楽に「ちょっかい」を出し続け、演奏者の一部が『方丈記』を朗読する。第3楽章では声楽アンサンブルにより1930年代のポピュラー音楽のコラージュが歌われる。1つ1つの声部は調性を保っているのだが全体では声部同士がぶつかりあって不協和音をなす。そしてスネアドラムが軍国主義の足音を鳴らす。第4楽章は「どのような時代と世相にも関わりなく過ぎゆく個人の青春の歌である」と作曲者はコメントしているが(プログラムより引用)マーラーの交響曲第5番第4楽章アダージェットのような甘やかな音楽かと思えば表現主義的な不穏な楽想が混じってくる。第5楽章で戦後に時代は移り12音技法と不確定性の音楽に至り、そして表現主義的な不穏な気配はやまない。

声楽主体の第2部に移り、第6楽章は「ゆく河のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず」という有名な一節に始まる『方丈記』をテクストとして、会場中を合唱団が歌いながらが歩くというシアター・ピース。第7楽章に入ってオーケストラも絡むのだが、声楽が聴衆の中に入って、『方丈記』の中の災害についての節を旋律的に歌うのではなく、口説(くどき)、つまり語りの形で朗読する。『追分節考』のように指揮者は団扇で合唱・朗読に指示を出し、また同時にオーケストラも指揮する。だが『追分節考』のように各声部が溶け合って解放感のある響きを満たすのではなく、閉塞感に満ちた重い雰囲気が会場を満たす。そして最終楽章では「ゆく河のながれは絶えずして~」の節が合唱されるのにオーケストラがかすかな音で絡み、合唱が退出したのちオーケストラで第1楽章の出だしが再現され、高揚した後にディミヌエンドして銅鑼の響きがかき消えるのを待って終曲となる。

「危機の時代の音楽」に相応しいテクストとして諸行無常を語った『方丈記』が選ばれたと捉えるのは妥当だろう。そもそも、危機でなかった時代などありはしないのだ。柴田が「昭和50年」を総括するにあたってそこに「危機」を見出したその強靭なペシミズムこそが柴田の芸術家としての知性と倫理を表している。この作品は柴田南雄という作曲家の1つの哲学であり1つの思想そのものなのだ。

サントリーホールが満員になった今回の演奏会、柴田南雄という巨人の足跡をたどる実に意義深く音楽的に豊かなものであった。このような大胆な企画に挑戦する山田和樹からは今後も目が離せまい。

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