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Italy meets Noh! 能×イタリア現代音楽|齋藤俊夫

%e8%83%bdItaly meets Noh! 能×イタリア現代音楽

2016年9月1日 イタリア文化会館アニェッリホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)

<演奏>
青木涼子(能)
増本竜士(フルート)(*)(マリオ・カーロリより変更、これに伴い演奏予定だったジェルヴァゾーニの「Ravine」はカットされた)
ディオティマ弦楽四重奏団(**)

<曲目>
トーク:ステファノ・ジェルヴァゾーニ「能との出会い」
フェデリコ・ガルデッラ:風の声(*)for Noh and bass flute(2012)
ヴァレリオ・サニカンドロ:3つの能の歌(*)for Noh voice and flutes(2011)
ステファノ・ジェルヴァゾーニ:喧騒(**)for string quartet(2014)
ステファノ・ジェルヴァゾーニ:夜の響き、山の中より(新作委嘱・世界初演)(**)for Noh voice and string quartet

今回の演奏会、作品と演奏それだけに着目した限りでは上質な音楽体験であったと言えよう。袴を着て背筋をすっと伸ばした青木の凛とした姿の美しさよ!ガルデッラの謡の影のようにフルートが付き従う作品、サニカンドロのフルートと謡が共に歌うかのような作品、ジェルヴァゾーニの吃音が繰り返されるようなカルテットの不可思議さなど、それぞれの作曲家の個性が存分に発揮されていた。

だが、演奏会からの帰路、筆者はずっとポストコロニアリズムの理論的指導者の1人、故エドワード・サイードの主著「オリエンタリズム」の思想を反芻していた。この書においてサイードは、西洋(自己)が東洋(他者)を表象することに潜む暴力性を批判したのだが、しかしその批判が一筋縄ではいかない(それゆえにこの思想が普遍性を持ちえているのだが)のは、オリエンタリズムは蔑視だけではなく理想視・理想化の形を取ることもあるというテーゼにおいてである。真の意味での他者との出会いではなく、自分の見たい他者への一方的な表象の押し付け、相互理解ではなく帝国主義的暴力の一端である、これがサイードのオリエンタリズムの批判的思想である。

そして今回の演奏会の作曲家達と演奏家の能と日本文化へのアプローチの仕方はまさにサイードのいうところのオリエンタリズム的表象そのものではなかったか。作曲家達が日本を「良心的に」把握し理解しようとしていることは疑えない。だが、その「良心」、すなわち、「美しい日本の伝統文化」を表象することにこそオリエンタリズムが潜む。能という他者と相対したとき、それが真の意味での他者として現れたか、自分に都合の良い理想を映し出すためだけの鏡として現れたか。コンサート冒頭、ジェルヴァゾーニの日本文化礼賛のトークを聴いた時点で筆者は悪い予感がしてならなかった。

ジェルヴァゾーニ『夜の響き、山の中より』の終わり間近で、青木が卵型のシェーカーを落とすという動作がある。作曲者としては「西行が、仏教は衰退の一途にあり、もはや救いの道にはならないとして、世俗の生から離脱することを表す」(プログラムノートより)ことを意図していたらしいが、しかし実際に見聴きするのは単に卵型のシェーカーを青木が落とす、ただそれだけである。作曲者の過剰な意味付けこそ「東洋の神秘幻想」とでも言うべきオリエンタリズムではないか。

同時に問題とすべきは、能をもって西洋現代芸術の中に進出した青木のオクシデンタリズムである。それは東洋(自己)が西洋(他者)を表象する際に内面化している、西洋を普遍と見なし、自らをそれに従属する非主体的存在として捉える視点である。能はそれ自体として完結した芸術として確固たる型を備えている。だが、今回の演奏会、特にジェルヴァゾーニ作品で「能として」現れたモノの多くは、現代音楽用に能から「切り貼りされた」断片でしかない。サイードの用語法に習うならば、能は現代音楽のために「馴化」された形でしか現れていなかった。

ジェルヴァゾーニ作品における青木による無声音、テキストを謡うのではなく朗読する、断片的に謡う、シェーカーを段落ごとに振るなどの技法は西洋の現代音楽の視点からは真っ当なものとなるのだろうが、能の伝統的な視点からは異端である。そしてそれらが真に現代音楽としての強度を持って東西を越えた表現力を持ちえていれば肯定的な評価ができようが、聴こえてくるのはジェルヴァゾーニのオリエンタリズム、そしてそれを実演してしまうことによる青木のオクシデンタリズムである。イタリー・ミーツ・能と言いながら、この出会いはイタリア現代音楽が主体となって一方的に能を客体として自らの都合に合わせて利用したものであって、能が主体となってイタリア現代音楽と出会う機会は奪われていた。

もし現代芸術が真に普遍的であろうとするならば、「西洋の普遍性」こそが相対化されるべきであるのに、今回の演奏会はそれに疑義を申し立てることなくそこにあぐらをかいている。ここに示された「日本の美」「日本の伝統」は、西洋=世界市場=アートワールドが求める形での西洋の視点からの「美」であり「伝統」であり、「日本という他者」は全き主体としてはついぞ現れることなく自らを切り売りするだけであった。

表層的には日本とイタリアの幸福な出会いと捉えられるかもしれない今回の演奏会が、実は西洋普遍のオリエンタリズムと日本の西洋に対するオクシデンタリズムを顕在化したものであるという筆者の見解をここに率直に述べておく。