東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 定期演奏会第300回記念演奏会|大河内文恵
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 定期演奏会第300回記念演奏会
2016年9月10日 東京オペラシティコンサートホール
Reviewed by 大河内文恵(Fumie Okouchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
高関健(指揮)
西村悟(ファウスト)
福島明也(メフィストフェレス)
林美智子(マルグリット)
北川辰彦(ブランデル)
吉成文乃(天の声)
東京シティ・フィル・コーア(合唱)
江東少年少女合唱団(児童合唱)
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
<曲目>
ベルリオーズ:劇的物語「ファウストの劫罰」作品24
めったに演奏されない『ファウストの劫罰』が、同じ月に、別団体による公演が2つ重なるという椿事が起きた。しかも、近年ではオペラ形式での上演が主流になりつつある中で、いずれも演奏会形式。これは聴かねばなるまいと多くの人が思ったのだろう。両公演ともほぼ満員の聴衆を集めた。本項では、10日の東京シティ・フィル公演について述べるが、24日の東響の項も参照されたい。
結論からいえば、この作品の底知れなさがあらためて浮き彫りになった演奏会であった。多くの課題が散見されたことと、この作品のあらたな魅力が開示されたこととは、コインの裏表の関係にある。
演奏が始まり、第2景で合唱が入ってくると、あれ?これはアマチュア合唱団の定期演奏会だっけ?とふと思った。今回は東京シティ・フィルの記念すべき第300回の定期演奏会だったはず。なぜ、そのように感じたのか。合唱の声がオーケストラの音に掻き消されてしまうことがある。高音の箇所や音量の大きいところで、天井に当たって響いてくる声より一瞬だけ先に、喉で押している声が聴こえてしまう。パートが細かく分かれているはずなのに和声的に響いてこない。細かい歌詞が聴き取れない。そもそもフランス語に聞こえない。アマチュア合唱団で「記念演奏会なので頑張ってオーケストラ伴奏つけました!」といった際に起こりそうなことばかりだ。
フランス語に聞こえないのはソリストも同じで、全員日本人ながら第一線で活躍しているトップ歌手が集まっているように見受けられるのだが、ドイツ語かイタリア語を歌っているように聞こえてしまう。その中で福島はかなり健闘していた。
ここで舞台上の配置についてふれたい。大規模なオーケストラの後ろに大人数の合唱団、ソリストは合唱団の前ではなくオーケストラと指揮者の間である。舞台正面のパイプオルガン演奏台がある2階手摺部分の左右に、オペラなどでよく見かける縦型ではなく、横型の字幕が出された。演奏者と字幕とが近いため、両方を同時に見ることができ、横書きだったお陰で音楽の流れに逆らわずに字幕を追えた。ホールの形状によって制約があるのでどこでもできることではないだろうが、よい試みだと思う。
さて演奏に話を戻そう。聴き進んでいくうちにあることに気づいた。管楽器の音色が豊かで、それぞれの楽器の個性が活きている。譬えていうと、パリ管の音といったときに思い浮かべるような、あのきらめきがここにある。ああ、これぞベルリオーズ!第3景のラコッツィ行進曲は絶品であった。ベルリオーズが第1部の舞台をハンガリーに設定しているのはこの曲のためだが、ハンガリーらしい民族的な響きを出しつつも、ベースにフランス的なオーケストラの響きを保持しているため、何故ここだけハンガリー?といった疑問を生じさせないだけの説得力があった。
第2部の酒場のシーンでは、ブランデルの<ねずみの歌>とメフィストフェレスの<ノミの歌>が光っていた。そしてさらに秀逸だったのは、第3部第12景の<鬼火のメヌエット>。3拍子のリズムに乗って、各楽器が軽快なステップを踏んでいく。オーケストラの手前にリノリウムを敷いてダンサーに踊ってもらっても良かったのではないかと思わせる躍動感があった。
第4部第18景からは地獄落ちの場面。オーケストラとソリストと合唱による咆哮は圧倒的な迫力。この作品をオペラ形式ではなく、演奏会形式でやるのは、このためだったのかと納得できるだけのものであった。オーケストラ・ピットに押し込めてしまったら、ここまでは望めなかったであろうことを考えると、この試みは成功であったと言える。その上で、たとえば新国立劇場合唱団のようなプロの合唱団と共演したならば、おそらく高関がやりたかったことがもっと実現できたのではないか。5年後でも10年後でもいい、さらに理想に近づいた形での『ファウストの劫罰』を東京シティ・フィルで聴いてみたいと切に思う。
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